“鬼さんこちら、手の鳴るほうへ”。
 その言葉を真に受ける鬼の子はいない。もしもそんなお遊びの言葉にひっかかって出て行ってしまったなら、私たちは捕まえられて食べられてしまうから。
 小さいころからずっと教わってきた言葉を信じていた。大人たちが自分たちよりも弱いヒトを恐れ憎んできたのは、私たち鬼をヒトが食べるからだ。ときどき迷子になった鬼たちは、翌日にはもう森の前に骨だけ遺して落ちていた。初めて鬼の骨を見たとき、私はその完璧な食べ方に怯えた。肉の一片も残ってはいなかった。
 だから私たち鬼はヒトを憎んでいた。陽気な声で遊ぶくせに、その手で私たちを食べるのだ。
 嫌いだ、ヒトなんて。
 姉だった骨を抱きしめて、思う。嫌い、嫌い。
 嫌いだ。

 *

 “鬼さんこちら、手の鳴るほうへ”。
 そんな言葉で釣れるほど、山奥に住む鬼たちは馬鹿じゃないなんて、誰もが知っていることだった。それなのに目の前に倒れている少女の額には、まごうことなき角が生えていた。日に当たったことがないかのように生白い肌の中、乳白色の角はつるりと映える。何度見ても、気味の悪い形だった。
 ここに放っておく理由などなかった。この鬼を自分で育て上げ、大人になったころを狙って食べれば、俺は不老不死を得られる。村の中にも子鬼を拾い育てていることを自慢して、まんまと子鬼を奪われた奴もいた。そんな馬鹿は起こさない。
 じわりと胸によどんだ感情の理由を知りながら、子鬼のほうへと一歩足を踏み出す。がさりと足元で枯葉が音を立てた。子鬼はまるで死んでいるかのように動かなかった。
 そっと跪いて起こさぬように気をつけながら、子鬼の体を抱き上げる。仙骨だからだろうか、まるで糸玉ひとつのように軽い体は、そこに当てはまるためのように俺の腕にすっぽりとおさまった。固く閉じたまぶたに長い黒髪がはらりとこぼれ、薄い唇にはりつく。まだ十にも満たない幼子のようにも見える子鬼は、一体いくつなのだろう。あと幾年無為に過ごせば俺は死なずに済む?
 ぎり、と歯をかみ締める。ずぶりと、嫌な音がした。血の音だったように思う。

 本当は逃がさぬように足の腱を絶ってしまうべきだったのだろうが、子鬼の、俺を憎憎しげに見る顔に哀れみを覚えた。いずれ食われると知っていて、足の腱まで切られたらそれはあまりに哀れだと思った。
 村の隅に追いやられた俺の小屋は、あたりにはめったに人が来ずただ近くに川が流れているだけだから、目だった音を立てなければ子鬼が大人になるまで育てることができるだろう。そのぼろい小屋で目覚めた子鬼は、目を見開いて飛び起き、逃げ出そうとして転んだ。彼女の細い足首は、縄で結ばれていた。
 ぎろり、と黒の多い目が俺を睨む。きっと子鬼だから解けないだけで、こいつがもし大人鬼だったならその縄をぶちぎって俺を殺して去っただろう。改めて子鬼を拾ったことの幸運に感謝する。
「睨むな。お前が約束を守ってくれるなら、縄は解く」
 子鬼は応えない。睨み続けるだけだ。
 そこに深い敵意と怯えを感じ取りながら、そ知らぬふりをして採ってきた野草を刻む。ふわりと漂ったよもぎの香りに、俺だけでなくもうひとりの腹が鳴った。ちらりと視線を向ければ、子鬼は苛立たしそうに自身の腹を睨んでいた。
「しばらくここにいろ。この小屋と近くの川より先に行くな。お前の嫌いなヒトが、お前を探している」
「肥やして、食らうくせに」
 響いたそれは、思いのほか高い音だった。睨みつける黒い眼から逃れるように、粟のなかによもぎを放る。それを火にかけてもまだ、子鬼は睨みつけているままだった。
「食わない」
 きっぱりと言い切った。沈黙を続けるよりも、よほど嘘らしいなどと自分を笑いながら、子鬼の角を見ていた。あれをも食らったなら、俺もあれと同じ容姿になるのだろうか。
 それでもいいと、思った。
「信じると思うのか。姉様を殺しておいて!」
 激昂した言葉が耳を突き抜けるが、気にはならなかった。できたかゆのようなものを椀によそって食う。味などなかった。よもぎが鼻をかすめただけだ、今日は魚を獲れなかった。
「俺ではない。他の村人だ」
「一緒ではないか! 貴様らヒトのせいだ! 貴様らが我らを食らうから!」
「だから、なんだ。お前らだって肉を食らうだろう。一緒だ」
「我らはヒトなど食わぬ。貴様らは何も知らぬのだ、知らぬから、あんなにも酷なことができるのだ」
「子鬼ごときが何を言う。死にたくなくば食え。まずいが」
 椀によそったそれを子鬼と囲炉裏の間に置いて立つ。今の声を聞き取られていたなら少しばかり厄介だった。草履を引っ掛けて出、思い出したように振り返れば黒眼はまだ俺を睨んでいた。よもぎの椀は、転がって火も消える。掃くのが面倒だと思った。憎いとは思わなかった。哀れだと、思った。

 それから子鬼を育てる日々が始まった。最初こそ出した飯を捨てていた子鬼も、やはり子どもだからだろうか、やがてきちんと飯を食うようになった。縄を解かぬことに不服を唱えることもなく、いつまでも小屋の内にいた。あの目覚めた日より、話す言葉は少なかった。
 鬼は、いつもどこで眠るのだろう。
 わらの布団に包まって眠る子鬼は、角さえ見ぬふりをしたなら、ただの幼い少女に見えた。年端もいかない稚児だ。暗い小屋のなか生白い肌は、月灯を受けていやにてろてろと光って見えた。人ではないのだと、その度に思い出す。こうやってわらに包まることに文句を言ったこともなかった。いつもは暗い穴倉だろうか。だから月灯にこうやって輝くのだろうか。
 あんなにも警戒し怯え、憎憎しげな視線を向けたくせに、無邪気に眠る子鬼が、わからなかった。
 秋が過ぎ冬を越え、春が訪れ夏が来てまた季節が巡っても、日常は穏やかで変わらぬままだった。子鬼は少しずつ成長し、傍目には十四、五の花のような少女に映った。春の時分に一度きり、外に出ることを訴えてそれを聞き入れてやって以来、子鬼の足の縄は解いてやった。子鬼は今も、逃げないままだった。
 鬼はいつから大人になるのかを、聞き出さぬまま数年が過ぎていた。もはや鬼は少女の姿を破って成人した女の姿になっていた。それも大層美しい白百合のように、清らでしとやかな姿だった。
「なあ」
「なんだ」
「鬼にも、名はあるのか」
 俺が獲ってきた魚のうろこを落とす子鬼の手は、白く滑らかだった。うろこがてらてらと跳ね返り、水に溺れているように見えた。そのなかで白い指先がとまったことに気がついて顔を上げれば、黒の瞳が大きく見開かれていた。視線が交わったことに気づいた子鬼は、顔をゆがめて落ちてきた黒髪を耳にかける。丸い、形のいい耳だった。
「鬼は、唯一添い遂げる者にしか名を教えぬ」
 静かな声だった。予想通りの返答に肩をすくめて、小屋のなかに戻る。近くの畑を耕そう。きっと子鬼はもう、子鬼ではない。
 きしり、と骨が軋んだ。

 間違えた、そう感じたのは、子鬼が椀に飯をよそって俺に押し付けたときのことだった。まるで天啓のようにその言葉が落ちてきて、俺の胸の中にするりと入り込む。それに違和感でも覚えたのだろうか、子鬼が訝しげな視線をこちらに向けてきて、その黒い眼にとらわれそうになった。
 子鬼が飯の仕度を手伝うようになったのは、成人らしき女の姿をとるようになってからだった。そしてそれにあまりにも慣れすぎた、慣れてしまった。
「食べぬのか」
 静かな声に顔を上げる。はっきりと見つめる視線には、もうどこにも怯えなどなく、敵意のかけらすらも残されておらず、それが無償に息苦しくさせた。椀を置いて立ち上がる。どこに、と問う言葉にも答えることもできないまま、川を渡って森の奥に駆けていた。
 食べなければいけない、食べなければいけない。でないと俺たちは死んでしまう。ヒトとしての生をまっとうできずに、死んでしまう。だから、殺さなければいけないのだ、あの鬼を、あの女の姿をした鬼を。
 まるで、妻のように美しく、いとしいあの女鬼を。
 息が、詰まった。
 かはっと咳き込んでのどから口内へとせりあがったものは、赤くくさいあの異物だ。俺というヒトを作り上げる何よりも大切なもの。それを知りながら思わず手を口に当てれば、べしゃりと嫌な音を立てて赤い液体が指の間から滴った。顔をゆがめてそれを振り払う。嫌なにおいが鼻についた。
 殺そう。そう思う。そうだ、せめて、あいつが砥いだ小刀で殺してやろう。それがやさしさなのか何なのか、もはや判然としない頭でそう考える。流れる川のほうに足を向けてそのまま歩き出しながら、口元の血をいつまでも拭っていた。こういう異物が出てくることが、不快だった。
 本当のヒトなら、こんなに弱くはならない。
 鬼を食らったやつらは、誰一人として吐血したことなどなかった。そうだ、鬼を食らえば、生きながらえる。こんなにも苦しむ必要なんてない。
 そう知りながら、どうして俺たちがこんな目にあわなければいけないのだと愚痴を漏らしたくなった。執拗にこぼれる血を忌々しく思いながら何度も何度も拭う。はたから見ればさぞや怪しい姿だったろう。
 そうしてようやく川へもどれば、小屋の前で子鬼が所在無げに立っていた。白い顔を時折上げては、誰かを探すようにその黒眼をさまよわせる。その姿は、まるで親を失った稚児のように見えて、思わず口元がゆがんだ。鬼のくせに、どうしてそんな顔をする。
 がさ、と足元の枯葉が音を立てて、それを耳ざとく聞きつけた子鬼ははっと顔を上げた。そして視線が合うと、唇を引き結ぶ。白い肌の中、紅でも引いたかのように赤い唇は、浮き上がって見えた。
 ひっそりと暮れはじめた森の中、子鬼の白さは際立った。派手な衣を着せきちんと紅を引き、艶やかな黒髪を優雅に結ったなら、さぞや遊女のように美しく映るのだろう。そう思いながらも、ぼろの布切れのような衣をまとう白い肌の子鬼は、美しく見えた。それが、余計に哀れで、骨ではないどこかが、きしりと音を立てたように思う。
 どちらからも声をかけぬまま、小屋へともどる。そしてふたりで食事を再開し、そうして夜になって、女鬼を抱いた。彼女は抵抗も拒絶もしなかった。ただ黙って、その黒い瞳を静かに俺に向けていただけだった。
 きっと、この鬼はすべてを知っているのだろうと、思った。

 寝床から起き上がりふと隣を見やれば、生白い肌を恥ずかしげもなくさらして子鬼は目を閉じていた。わずかにもれる息は薄く、少女というよりもまるで赤ん坊のようにその温度は高い。それをどう見ればいいのかわからないまま、衣に身を包んで、小刀を手に取った。
 この日以外に、女鬼が受け入れてくれるように思えなかった。
 そうしてもう一度眠りについたままの子鬼を振り返れば、彼女はその瞳を開いていた。黒の部分が圧倒的に多いその眼が、まっすぐに俺を見ていた。俺の手の中にある小刀ではなく、俺というヒトを。彼女の憎むヒトを。
「姉様を殺したように、殺すか」
 ぽつりとつぶやかれた言葉にびくりと肩が震えた。答えることもなくその眼を凝視していれば、ゆるりと上半身を起こした子鬼は目を伏せた。伏せられた先にある豊かな乳房には、昨晩俺が残した赤い痕が咲いていた。白百合に寄生した、赤虫のようだった。
「俺は、お前を食らいたい」
 静かな声が零れ落ちる。それを微動だにせず聞いていた子鬼は、やがてゆっくりとこちらを見上げた。乳白色のつるりとした角が、やけに目立って見えた。
 鬼の証。
 とっさに逃れるようにして視線をそらす。子鬼の言葉に逆らえるような気がしなかった。
「なぜ」
 小さな問いかけに答えることを悩む。鬼は俺たちのこの奇病を知っているのだろうか。
「死にたく、ないからだ」
 身勝手な理由だとわかっていた。でも子鬼を食らえば、俺は死なない。体は朽ちない、骨のあの、軋むいびつな音は聞こえない。
「我も、死にとうない」
 ひそやかな声音だった。思わず彼女を凝視すれば、伏せられた瞳が美しかった。
 もうだめだと、ぼんやりと思う。どんなにこの子鬼を殺そうとしたって、抱いてしまえば情もわく。わかっていながら抱いた俺は馬鹿だ。小刀を握る手が弱まって、指からするりと抜け落ちた。それはそのまま瑣末な床を転がって、囲炉裏の中に飛び込む。それを見終えたとき、かは、とのどが嫌な音を立てた。せりあがる異物に顔をゆがめ、とっさに手を当ててそれを押さえ込もうとする。けれど指の間からこぼれた赤に、子鬼は目を見開いていた。
「病、なのか」
 静かな問いかけだった。わかっているだろうに、見ればわかるだろうに。無性にいらだって思わず声を荒げようと口を開き、けれどそこから零れ落ちるのはしつこい赤だけだった。そのままずるずると体が崩れ落ちるのを、白い女鬼の腕が掻き抱く。赤い血を抱いたせいで、美しい肌が穢れて見えた。
「……鬼も、ヒトを食らうと知っているか」
 言葉にこくりとうなずく。そんなものは誰もが知っていることだ。今はヒトのほうが圧倒的に多いから、鬼は食らおうとはしない。ずっと昔、それこそ俺の祖父が生まれるちょっと前までは、鬼がヒトを食らうことのほうが多かったという。それを思い出しながら、ふと脳裏を掠めた甘美な予感に唇が震えた。
 ふっと落ちてきた女鬼の顔の横を、艶やかな黒髪がするりと滑り落ちる。黒い眼がこの上ない近い距離で俺の視線を捕らえ、そうして唇は掠めるような位置で囁く。女鬼の指が、静かに俺の頬を撫ぜた。
「最期に、秘密をくれてやる」
 甘い吐息が絡まって、そう思ったときには叫びだしそうなほどの激痛を感じた。息を求めるようにしながら互いの唇をむさぼりあい、そして少しずつ愛撫するように食われつつ、意識は緩やかに混迷していく。火照る体を冷やすこともできないまま、女鬼の白い指と黒い眼を見つめていた。
 今度こそ、本当の紅を引いたかのごとく、赤い唇を、色香のにじむ舌で舐め取った女鬼は、顔をゆがめて囁いた。
「我は、白百合」