オブリアルテに火を灯す



 マルカの暮らす修道院に、ルーリエがやってきたのは鼠色の空からはらはらと灰色の雪が降る、寒い冬の日のことだった。
 その日、マルカは火を灯す係りだった。朝を知らせる時の鐘を聞くよりも早く起きて、白いリネンのがさついた寝巻きから紺色のワンピースに着替え、かじかんだ足に黒いフェルトの靴を履く。火を灯すことなく一連の着替えを終えたマルカは、同室者のいない部屋の木の扉を開けて、静かな廊下に躍り出た。
 礼拝堂へ行くためには三階に上がって別館へ抜け階段を降りるか、噴水のある広場を通り過ぎ暗い廊下を渡らなければいけない。幼い修道女見習いたちの間で、暗い廊下のことをオブリアルテと呼び恐れているのも仕方のないことだ。天井のアーチが無駄に高く設計されたその廊下は、半地下にあることも合いまって外光の届かない空間となっていた。毎朝修道女見習いの少女たちは、当番制でオブリアルテにある燭台に火を灯しに行く。
 マルカは早朝の修道院が好きだ。彼女が火の当番になったことを哀れんでくれた友人たちには悪いが、マルカはオブリアルテなど怖くはない。当番の子が来るよりも早く噴水の淵に腰掛けて、怯えたようにオブリアルテの燭台に火を灯していく友人たちを見守るのが、マルカのささやかで少しばかり悪趣味な習慣だった。
 一度修道院の裏にある門番のところに挨拶に行き、火のついた松明を持ってくると告げた門番を待つ間、マルカはぼんやりと、雪の積もって行く森を見つめていた。
 修道院の裏には森しかない。この先に何があるのかは、修道女たちは誰も知らないし、マルカたち修道女見習いたちも知らなかった。ときたま好奇心の強すぎる子が門番の目をかいくぐり、勝手に出て行って、数日後冷たくなったその身体を門番に抱き上げられて帰ってくることがある。彼女たちの墓は今も森の隣、この門の横にひっそりと存在する。小さな墓石には何も書かれておらず、つるりと白い石が雪に埋もれていた。
 マルカの紺色の肩が白く染まる頃、門番は松明を手に現れた。気を付けてなと囁く声は煤けたようにしゃがれていて、節ばった指は分厚い皮膚に覆われていた。にこりと笑う門番の手から松明を受け取り、マルカはありがとうとつぶやき、踵を返す。
 オブリアルテに火を灯そう。マルカは踊るように歩きながら歌う。韻を踏んで幼い少女のようにステップを踏む。楽しいことがあるかのように。
 廊下を歩くマルカの靴音は吸い込まれて消えて行く。この修道院に入ったときに、マルカは革でできた靴を失い、羊毛でできたケープを失い、きらきらとしたネックレスを失い、身を飾るドレスを失った。マルカはマルカ。マルカは何者でもなくなった。ひとりの修道女見習いになった。
 オブリアルテについたとき、松明はまだパチパチと火を爆ぜていた。木の部分がわずかに湿ってはいたけれど、マルカの手よりも濡れてはいない。こくり頷くとマルカは背伸びをしながら燭台に火を灯し始めた。
 全部で二十四本ある柱のうち、燭台があるのは八本だ。四本目まで灯し終わったとき、ぱしゃりという水を跳ねる音を聞いた。背伸びをしていた腕が驚きで震え、マルカはあわてて松明を持つ右手を、もう片方の手で支えて背伸びをやめる。ふっとオブリアルテから覗くことのできる中庭の噴水に視線をやると、そこに彼女は腰掛けていた。
 白い髪、白い肌、青い瞳、重そうな紺色のケープに白い女王めいたドレス。たおやかに手が揺れて、指は水を叩いて遊んでいる。ぽかんとマルカは口を開けてほうけてしまった。童話の中から迷い込んだ雪の女王は、美しくただうつくしく、独特な光を放ってそこにいた。
 雪が、少女の肩を白く染める。
 礼拝堂の鐘が鳴る。
 少女はマルカを見つけると、悪戯好きの子どものように微笑んだ。


 美しいルーリエは、すぐに修道女見習いの少女たちの憧れの的になった。美しく気品に満ちたルーリエ! 誰からも慕われるルーリエは、けれどみなと同じく何も持ってはいなかった。ルーリエはルーリエ。修道女見習いの少女。
 同室者のなかったはずのマルカの部屋に荷物が増えていることに気がついたのは、ルーリエを見かけた日の晩のことだった。マルカは修道女に頼まれ、仲間たちと雪の積もった畑を掘り起こして疲れ果てていた。隣の部屋の少女たちと部屋の前で別れ、中に入ってすぐに目を見張る。マルカの寝台の横にあったはずの鏡台が消えて、ぽつんと新しい寝台が横たわっていたからだ。見るからに柔らかそうな白い毛布が被さっており、足元には白いフェルトの靴が一足、持ち主を待つように行儀正しく鎮座していた。その真っ白な様子から、マルカはそれがルーリエのものだとすぐに気が付き、ぎょっとした。
 どうしてルーリエがわたしと同じ部屋なのかしら。
 修道女見習いの少女たちが一体何人いるのかマルカは知らない。それは知る必要のないことでもあるからだろうが、それ以上に出入りの激しい場所だからでもあった。今日いた子が明日にはいない。七年近く修道院にいるマルカは、むしろ古参というべき立場なのだろう。しかし修道女たちはマルカや他の少女たちをいつでも間違える。誰もマルカの名前を憶えていないし、少女たちの区別などついているはずもない。ただ、マルカはときどき修道院長に声をかけられることがあるから、そんな理由で修道女たちの目に留まることもあった。
 どうしてルーリエはわたしと同じ部屋なのかしら。
 また同じことを考えた。マルカは、ひとりの部屋が気に入っていた。誰のいびきも聞こえないマルカだけの王国だった。修道院長が贈ってくれた刺繍台と、マルカの小さな身体を横たえてぴったりのサイズの寝台と、机と椅子が一組あるだけの王国だった。
 白い女王がやってくる。マルカだけの王国は、女王のための王国になってしまうのだろうか。
 けれど、白い女王ルーリエは、マルカの王国にすぐに馴染んでくれた。
「お邪魔します。こんにちは、マルカ。わたしはルーリエよ。今日からあなたのルームメイトになるわ。よろしくね」
 にこやかな言葉とともに彼女は扉を開けて凱旋した。今朝見たあのときの印象はそのままに、腰まである白い長い髪がぶわりと風に押し出され巻き上がり、雪と共に室内へと転がった。マルカは今にも消そうとしていた燭台から手をどかし、慌てて寝台から身を起こす。ルーリエの手には銀でできた燭台が握られており、夜中だというのに少女の腫れた目元を晒し出していた。にっこりと悪戯気な笑みでこそあるが、泣き腫らした目ではもう気丈な少女には見えなかった。
 ルーリエはルーリエ。修道女見習いの少女になったのだ。
 マルカがよろしくと小さくつぶやくと、ルーリエはこくりと頷き、手前の寝台の近くのテーブルに燭台を置いた。既に彼女は今朝がた身に着けていた女王めいたドレスは着ておらず、マルカが先程まで身に着けていた紺色のワンピースと同じものを着ていた。ぽすりと毛布に腰を下ろした背中から、白いリネンが垣間見える。修道女見習いになってしまえば、誰もかれも自分が何者であるかということを忘れてしまえる。
 ルーリエに声をかけようと思った。けれど夜に紛れた紺色のワンピースが、マルカよりも大きいだろう背中が震えていたから、マルカは燭台の火を消した。
「おやすみ、ルーリエ」
 翌朝起きるとマルカはいつものように紺色のワンピースに着替えてから、ふと隣の寝台に目をやった。ルーリエは赤ん坊のように身体を丸めて、目を真っ赤に腫らしながらすやすやと寝息を立てていた。赤ん坊そのものに無防備な姿を前に、マルカは戸惑う。他人の寝姿を見るのは、どうしてこんなにも後ろめたいのかしら。
 朝は礼拝堂よ、とだけメモした紙をルーリエが昨日持ってきた燭台の下に挟みながら、マルカは彼女の閉じた目を見つめていた。どうしてこんなに熱心にルーリエを見ているのか自分でもわからなかったが、ルーリエの瞳が見たかった。青い水底のような瞳。昨日あんなにも遠いところから目を合わせただけなのに、マルカにはそれが宝石に見えた。いつか誰かがマルカにプレゼントしてくれた、青い宝石に見えたのだ。
「ルーリエ」
 名前をつぶやいてみる。少女の白い睫毛が、蝶がゆっくりと翅を動かすように、かすかに揺れた。ルーリエは目を覚まさなかった。


 礼拝を終えてマルカが食堂に向かうと、早くもルーリエのまわりに大きなひとだかりができていた。新しくひとが入ると基本的にひとだかりができるものだけれど、ルーリエのまわりにいるひとの数は、修道女見習いたちの中で女王然と振舞っている少女のときよりも多かった。あ、とマルカは小さく漏らす。
 案の定そのひとだかりに割って入って行ったのは、マルカたちの女王を気取っている少女だった。マルカは彼女の名前を知らない。彼女の刺繍は修道女には褒められて修道院長に褒められなかったということしか、彼女については知らなかった。
「おはよう。あなたが新入りね?」
 女王の言葉にルーリエは食事をしていた手を止めて、木のスプーンを皿の上に置いた。それからゆっくりと彼女を見るべく顔を上げる。
「おはよう。ええ、そうよ。ルーリエというの。よろしくね」
 綺麗な声だった。女王は一瞬言葉に詰まる。もっと高飛車な女だとでも思っていたのだろう、鼻白んだ彼女はルーリエを見ながら興味を示したように腕を組んだ。
「わたし、あなたのことをどこかで見た気がするわ」
「奇遇ね、わたしもあなたを見たことがあるわ。でも、それは前の話よ。今わたしはただのルーリエ。苗字のない失われた少女。違うかしら?」
 にっこりとルーリエは微笑む。まわりにいた少女たちが皆一様に息を飲む様子がなんだかおかしかった。女王はふふっと満足そうに笑い、ルーリエに座っても? と尋ねる。ルーリエはもちろんと穏やかな笑みで応え、ふたりの女王は席についた。女王に認められたのなら、ルーリエは修道女見習いたちの間できっと愛される。他人事なのにわたしはほっとした。
 さて、食事をしようとマルカがトレイを持ってきょろきょろと視線を彷徨わせたそのとき、女王の強い声が飛び込んできた。
「あなた異端者マルカの同室なの!?」
 甲高い少女の声が一際大きく食堂に響いた。跳ね返ってくる音は特別に設計された天井のおかげで、ぱらぱらと雨のように降り注ぐ。ざわめくよりも先に少女たちはルーリエをじっと見つめていた。あんなに視線が集まったら気持ちが悪いわとマルカはぼんやり思い、やっと見つけたテーブルにトレイを置いて椅子に腰掛けた。
「異端者? マルカはでも聖母マリアルテを信仰しているわ。寝台の横に像があったもの」
 ルーリエをちらりと見る。ルーリエは来たばかりだからなんにも知らないのだ、像があるのは当たり前だということ。マルカは修道女見習いたちの中では異端であるということを。
 隣に座っていた少女がマルカに気付くと、気まずそうに立ち上がって去って行った。代わりに友人がどっかりと腰を下ろして、マルカに大丈夫? と尋ねてきたが、マルカには何故大丈夫かと問われたのかわからなかった。だから豆だらけのスープを口にして、これ美味しくないわよと返しながら笑った。
「あなたなんにも知らないのね。マルカは異端よ。だって信仰のための刺繍だというのに彼女が作るものといったら、聖母マリアルテを思いながら作ったとは到底思えない色合いなのだもの」
「当然よ、聖母マリアルテのことなんて考えていないもの」
 マルカがぽそりとつぶやいた言葉を聞きつけた友人はしっと唇を尖らせた。
「そんなことたとえ思っていても口にしてはダメだよ、マルカ」
「平気よ。聖母様だってわたしの祈りなんて聞いちゃいないわ」
 マルカと嗜める声に肩を竦めてスプーンで豆をすくい上げた。そのまま口に運んだ時、ルーリエは女王に微笑みかけた。
「ここの修道院は刺繍をするのね。わたしでもできるようになるかしら?」
「ええ、きっとできるわ。わたしが教えてあげる。間違ってもマルカなんかに教わってはダメよ」
 ルーリエがどう答えるかまわりの少女たちが関心を寄せていることに気が付いてはいたが、マルカは食事を終えてトレイを持って立ち上がった。トレイを返したあと再び食堂を抜けようとするマルカの背中に、勝ち誇った女王の声が投げられた。
「ええ当然だわ。だってマルカはオブリアルテの忌み子だもの。あんな子に刺繍なんて教わったら、毒の花しか描けなくなるわ」


 女王の庇護を得たルーリエが、女王よりも人気になるのは本当に一瞬のことだった。もう利用することは二度とない本名をこれ見よがしに振り回す女王よりも、誰にでも優しくそして神秘的なルーリエのほうが愛されるのは当然のことだった。きっとルーリエがもっと頭が悪い少女だったなら、女王の逆鱗に触れてマルカと同じく異端者として糾弾されていたのだろう。
 けれど実際には、ルーリエは上手に女王に慕われて、女王よりもルーリエが愛される理由をわからせた。ついこの前までは女王に取り入ろうと必死だった少女たちは、今は穏やかな顔でルーリエに群がっている。ルーリエは女王蟻のようだとマルカは思った。
 マルカの早朝の習慣は、ルーリエに邪魔されることはなかった。彼女は最初こそ、早々に出かけるマルカに驚いてはいたけれど、それが習慣なのだとわかるとそうなのと笑った。
 一度だけどうしてもといわれて、その習慣に彼女を連れて行ったことがあった。マルカが起きるとルーリエはすでに起きており、悪戯好きの子どものようにきらきらと目を輝かせてマルカを待っていた。燭台は持っていかないわとルーリエが手に取った燭台をテーブルに置かせて、マルカはルーリエの手を取った。
「喋っちゃダメよ」
 マルカの言葉にルーリエは頷き、右手の親指と人差し指の先をくっつけ、唇をなぞった。なあにそれと尋ねたマルカにルーリエは逆方向に唇をなぞって、にこりと笑う。
「お口チャックよ」
 ルーリエはときどき変なことを言う、と思いながらマルカはルーリエを連れて部屋を出た。オブリアルテに向かう当番の少女に出会わないよう気をつけながら、噴水へと辿り着く。ああここね、と明るい声でルーリエはいった。喋ってはダメといったでしょうとルーリエを嗜めてから、マルカは噴水の淵に腰掛けた。ルーリエもおとなしくマルカの隣に腰掛ける。鉛色の空から白い雪が発光しながら降っていた。朝日が昇ろうとしているのだろう。
 オブリアルテの左手に火が見えた。松明に灯された火はゆらゆらと揺れて、不器用に燭台に火を灯しにいく。今日は初めての子なのだろう、動きはたどたどしく燭台の場所を把握してないようだった。ルーリエが隣にいるということも忘れて、マルカはオブリアルテに魅入っていた。


 ルーリエは部屋にいるとき以外はマルカと滅多に言葉を交わさなかった。女王がマルカを気に入っていないことは一目瞭然であり、ルーリエは女王に気に入られている。マルカはルーリエに庇われるほど親しくなったつもりもなかったし、部屋にいるときと態度が違うことにマルカがどうこう言うはずもなかった。ルーリエがどうしようと彼女の勝手だ。少なくともマルカの習慣を邪魔しないでいてくれることだけで、ルーリエは素晴らしい同室者だった。
 ただ、刺繍の時間になるとマルカが部屋に戻ることに気がついたときは、煩わしく思った。部屋にあるマルカ専用の刺繍台に目敏く賢いルーリエが気づかないわけがなく、ある晩彼女は刺繍台を指差してマルカに尋ねた。
「どうしてマルカは刺繍の時間になると部屋に戻るの? これでなければ刺繍できないの?」
「違うわ」
 即座に否定してからマルカはため息をついた。ルーリエは聡明だ。聡明だからこそマルカに無駄な説明を求めないでいてくれると思っていた。いや、違う。ルーリエのそばに女王がいるからマルカが説明する必要などないのだと思っていた。
「あなたの女王は説明してくれなかったの?」
 燭台をテーブルに置いたマルカは、黒のフェルトの靴を脱いで寝台にぽすりと身を埋めた。マルカは大きな枕を抱きしめ、刺繍台に近寄ろうとするルーリエを声で制す。
「近寄らないで」
「あの子は女王なんかじゃないわ。あの子が教えてくれたのは、これは修道院長がマルカのために作らせたもので、修道院長はマルカの刺繍の腕を褒め千切ったってことよ」
「ルーリエ、近寄らないでっていったわ」
 ルーリエはマルカの制止を聞かずに刺繍台のほうへと足を伸ばす。マルカは寝台から飛び起きて枕をルーリエに向かって投げつけた。
「なぜ?」
 ルーリエは枕を上手に掴むとやっと足を止めた。その日初めて彼女はマルカを見た。燭台のそばにいるマルカの目は一体何色に見えるのだろうか。
「あの子の言うとおりよ。それは修道院長がわたしのために贈ってくれた刺繍台。誰にも触らせたくないの。わかる?」
「あなたの刺繍が見たいわ」
 ルーリエのいつもは涼やかに響くはずの声が、そのときマルカにはねっとりとべたついて聞こえた。マルカは目を細めてルーリエの青い目を睨む。美しいルーリエ、気品に満ちたルーリエ! けれどマルカはこの数週間共に暮らした友人を、そのとき初めて気持ちが悪いと思った。
「嫌よ」
「どうして?」
 ただ単純にそう尋ねているだけだということはマルカにでもわかった。青い瞳は美しい。いつか見た宝石を思い返しながらマルカは、同時にそれを嫌悪した。
「なぜ? どうして? ってルーリエは子どもなの?」
「わかりたいから聞いているのよ、マルカ」
「なぜルーリエはそんなことが知りたいのよ」
 黒いフェルトの靴に足を突っ込み、刺繍台の前に立つルーリエに向かって足を踏み出した。ルーリエはマルカを見て小首をかしげる。火のついている燭台はルーリエの寝台の横にしかないというのに、彼女の白い髪はちろちろと火が燃え移ったように輝いて見えた。
「マルカと親しくなりたいからよ。おかしなこと?」
 純粋なはずの願いが、マルカには不快だった。
 だからマルカはええと言い放つ。刺繍台の前に辿り着き、ルーリエの目を見ながらはっきりといった。
「ええ、おかしいわ。なぜならわたしはあなたと親しくしたくないからよ」
「マルカ、どうしてそんなにひどいことをいうの」
 ルーリエの白い眉が心なし垂れ下がる。それでもマルカの心は動かなかった。ルーリエはルーリエ。修道女見習いの少女。
 マルカだけの王国に迷い込んだ少女だ。
「寝ましょう、ルーリエ。明日はあなたがオブリアルテに火を灯す当番でしょう?」
 ルーリエの手を取り彼女を寝台に寝かそうと促す。自分より大きい手は修道院に入ってからだろう、少しだけ荒れていた。けれどマルカのがさがさとひび割れた手よりも何倍もましなはずだ。
 ルーリエはそうね、と白い林の下に青い瞳の本心を秘めて頷いた。マルカよりも年上の彼女を寝かしつけ、白い布団を被せてやると、ルーリエはマルカの指を掴んで毛布の下から青い瞳を覗かせた。
「明日、あなたはいつものように見ていてくれるのでしょう?」
 知らないわ、とマルカはいった。燭台の火を吹き消すと、マルカの王国に本当の夜が訪れた。

  *

 ルーリエは不安だった。朝を告げる鐘が鳴って身を起こしちらりと隣の寝台に目をやると、そこには誰の姿もなかった。黒いフェルトの靴も消えていて、白いリネンの寝巻きが寝台の上に毛布と共に散らかっている。マルカはオブリアルテに火を灯す少女を、今日も見守るために行ったのだと思った。
 マルカたち修道女見習いの少女たちと同じ、白いリネンの寝巻きを脱いでルーリエは紺色のワンピースに腕を通す。左手の窓からは白い靄のかかった森がぼんやりと浮かび上がって見えた。今さらのように、いつもマルカに見守られていたのだと気が付く。マルカがいないと、この部屋は持ち主を失ったかのようにさみしそうだ。
 白いフェルトの靴に足を入れ長い髪をおさげに編むと、木の扉を開けて、静かな廊下に躍り出た。
 ルーリエは早朝の修道院が嫌いじゃない。マルカに一度連れてきてもらったとき、その静かな朝を知った。誰もいない、無垢な空気。朝日に照らされてきらめき、はらはらと舞い落ちる雪。そしてそんな鉛空と対照的なオブリアルテの闇の下、ほのかな光がちらちらと辿っていく。先の見えない少女たちの未来への恐怖。嫌いではないのだけれど、恐ろしいと思う。
 ルーリエはマルカに教わった通りに修道院の裏の門番の元へと足を運ぶ。門番が火のついた松明を持ってくると告げ、それを待つ間、ルーリエはぱきぱきと落ちて散らばっている小枝を踏みながら、修道院に来て初めて雪の降っていない日というものを楽しんだ。雪で視界が消えるなどということもなく、ただ白い靄だけがルーリエの目の前に揺蕩う。足を踏み出せば靄は逃げ惑うように道を開けた。
 そこにあるということを知っているのにもかかわらず、森に視線を向けることはできなかった。ちら、と視界に入りそうになるたびに、視線を落とし、そしてつるりとしたいくつかの白い石に気が付く。これが少女たちの噂する、森で迷子になった修道女見習いたちの墓なのだろうか。
 こんなちっぽけで、雪にさえ埋もれてしまうほどか弱い存在が。
 微かにため息を漏らしたそのとき、門番が大きな松明を持ってやってきた。気を付けてなと囁く声は煤けたようにしゃがれていて、ルーリエはふと紺色のワンピースの中に入っている甘い豆の袋を思い出した。喉に優しいから、と松明と交換するために手渡した。門番はしわがれた顔をほころばせ、ルーリエの頭を撫でる。ごつごつとした木のような指をしていた。門番に会釈して踵を返す。
 オブリアルテに火を灯そう。ルーリエはそっと忍び込むように歩きながら囁く。韻を踏んで、臆病な少女のように一歩ずつ慎重に。怖いことが待っているかのように。
 廊下を歩くルーリエの靴音は吸い込まれて消えて行く。
 オブリアルテについたとき、早朝だというのに日光など入るはずもなく、そこは夜の闇が未だ色濃く残っていた。ここがオブリアルテなんて、闇そのものと呼ばれているなんて、誰が名付けたのかはわからないがなかなか素敵なセンスをしているわ、とルーリエは苦笑した。忍び寄る恐怖に苦笑することしかできなかった。
 マルカのいった通り、全部で燭台は八本だった。遠いところにある燭台はちらりと銀色の光を放っていて、それがなければきっとルーリエには見ることができなかっただろう。ひとつ大きな深呼吸をすると、ルーリエは近くの燭台にまずは火をつけた。
 右の燭台の一本目。左の燭台の一本目。右の燭台の二本目に火をつけたとき、ルーリエの頭の近くで何かが光った気がした。はっと顔を上げたルーリエの青い瞳は、噴水を形づくる石畳みを捉える。そこに白い足が二本ぶらぶらと揺れていて、マルカがそこにいるのだと気がつき、ほっとした。マルカが見ていてくれるのなら、ルーリエでもできる。安堵しながらルーリエは振り返り、目に入ったものに掠れた悲鳴を上げた。
 聖母マリアルテがそこにいた。
 救世主である赤子を産み落とした聖母として、深紅のローブを身につけ紺色の布に包まれた赤子を抱き上げるはずの聖母マリアルテが、深紅のローブに吊るされていた。たおやかな両腕を縛られて、マリアルテはじっと目を閉じていた。ルーリエの自慢の白髪と同じ色の髪が、風に揺れる。たわわに実った乳房や妊婦を思わせる膨れた腹を晒し出しながら、聖母マリアルテは嘆いていた。
 ルーリエの掠れた悲鳴は飛び上がり天井にぶつかって、ぱらぱらと落ちてくる。けれど聖母マリアルテにそれは吸い込まれて行くようで、今にも目を開きそうな瞳はけれど閉ざされたままだった。
 そのとき初めてルーリエは気がついた。松明をぎゅっと握り直し、一歩一歩聖母マリアルテに近付きながら息を飲む。彼女は、生きてなどいなかった。しかしまた死んでもいなかった。
 聖母マリアルテは、精密に作られた刺繍だった。滑らかな巨大の黒い布にしっかりと刺繍された、糸だった。ぞっとするほど人間じみた糸だった。目を開きそうなほど苦痛に満ちたその顔は、けれど一生動くことなどないのだ。
 ちらりと噴水のそばにいるのだろうマルカを振り返るが、もちろん白い二本の足とフェルトの黒い靴しか見ることができなかった。マルカの顔はわからない。いつも彼女は何を見ているのだろう。あの美しく遠い瞳は、何を見ていて何を見ていないのだろう。ルーリエにはわからない。
 ただの修道女見習いの少女のルーリエにはわからない。

  *

 礼拝を終えたマルカはいつものように食堂へ向かい、途中で修道女に呼び止められた。真っ白い顔をした修道女は皆顔が同じに見える。きっと彼女たちがマルカたちを間違えるのと同じことなのだろうとぼんやり思っていると、やっとマルカにたどり着いたらしき修道女は、あんたがマルカだねと疑わしそうに尋ねてきた。
「ええそうよ」
「院長先生があんたの作品を見せて欲しいといってきたんだよ。明日までだ。明日までに作っておくれ」
「テーマはあるの?」
 ふざけて尋ねた言葉に修道女はきゅっと眉根を寄せて、首を振り振り返してきた。
「今日の礼拝を聞いて考えた、あんたの思う愛だよ。愛について作りなさい」
 言い終えるやいなや修道女は足早に去って行った。不器用に去って行く後ろ姿は、よく見れば左足を引きずっている。彼女は左足が悪かったのだ、と遠くなる姿を見つめながら思った。
「マルカ」
 ふとかけられた声にマルカは今日はお客さんが多いのねと嘯きながら振り返る。食堂の手前で青い顔をしたルーリエが立っていた。青い顔をしていても気品を失わないルーリエが、マルカを見て微笑んだ。
「部屋じゃないのに話していいの、ルーリエ?」
「構わないわ。少し、話さない?」
 ルーリエはじっとマルカを見つめていた。その青い瞳に見つめられるとマルカは少しだけ居心地が悪くなる。こんな風に思う相手、今までいなかったのに。
「ええ、いいわ」
 マルカの声にルーリエは白い髪を靡かせながら踵を返した。ついてくると信じて疑っていないルーリエはやはり白い女王だ。何者をも信じて何者をも救おうとする女王だ。
 ルーリエがマルカを連れてきたその場所は、オブリアルテだった。よく聞けば噴水が水を流す音が響いている。ルーリエは燭台の数を指を指して数えながら、やがて立ち止まった。数を数える指先は、かわいそうなくらい揺れていた。
 あった、とつぶやくルーリエの青い瞳はもはやマルカを見てはいない。巨大な壁面に垂れ下がるタペストリーを目の前にして、言葉もないのかもしれない。マルカには修道院長や修道女が、このタペストリーを前にすると押し黙る理由がわからない。マルカはマルカ。修道女見習いのただの少女なのだから。
「マルカ」
「どうしたの」
「これ、あなたが作ったものなのね?」
 それは質問ではなく確認だった。ルーリエは変なことを聞く、と思いながらマルカは頷いた。
「ええそうよ」
「ねえ、マルカ。マルカは何を愛しているの?」
 ルーリエの声が震えていた。美しく気品に満ちたあのルーリエの声が、震えていた。何が何だかわからないまま、マルカは眉をひそめてルーリエと名前を呼ぶ。おさげにされた白い髪はふわりと浮いて、マルカを振り返った。
 マルカの細い悲鳴がオブリアルテに木霊した。
「ルーリエあなたどうしてそんなに怖い顔をしているの」
 ルーリエの青い瞳は憔悴し疲れ切ったように重い涙を流していた。さっきは確かに綺麗に編み込まれていたはずの白の三つ編みは、ほろほろとほどけて天使の羽のように背中を伝落ちる。紫色の唇はわなわなと震え、涙が吸い込まれて行く。まるでタペストリーの聖母マリアルテのように悲痛な顔をして、彼女はマルカを見つめていた。
「マルカ、ねえマルカ。答えて。あなたは何を愛しているの? 何を愛したら、こんなものを作れるの? マルカ、あなたには愛がないの?」
 ぞっとした。ルーリエが何を言っているのかわからなくて、マルカは泣き出しそうになった。ルーリエは変なことを言う。けれどこれは、怖いことだ。マルカにいらないものを押し付けようとする、怖くて恐ろしいものだ。
「知らないわ。わたしが愛しているのはオブリアルテよ。オブリアルテを愛しているただそれだけよ」
「あなたの愛はおかしいわ!!! こんなの、こんなもの、聖母様に対する侮辱よ!!」
 ルーリエの声は甲高く強い勢いでマルカのほうへと飛んできた。その恐ろしいまでの強さと形相にマルカは怯えることしかできない。ルーリエは、ルーリエは変だ。童話の中から出てきた雪の女王は、オブリアルテにはいられないのだ。
「どうして? わたしはオブリアルテを愛しているだけなのよ、ルーリエ。聖母マリアルテはただのモチーフよ、聖母マリアルテのための修道院だから必要だっただけで、オブリアルテには関係ないわ」
 極力強くない声でマルカが一生懸命言い募るが、ルーリエは必死に首を横に振った。白い髪が大きく広がってそれはさながら凍りついた蜘蛛の巣のように見えた。
「それならどうして聖母様を描いたの!? オブリアルテへの愛を描くためなら彼女は必要ないわ!!」
「だから今言ったじゃない、これは修道院のために作ったタペストリーなの。ならばこれが修道院を指すとわかるためには聖母マリアルテが必要だっただけなのよ」
「嘘よ、だってそれだけならこんなお姿にする必要なんてなかったじゃない!!」
 ぴたりと、マルカは口を閉ざした。さっきまで一生懸命言い返そうとしていた熱を失って、マルカはただルーリエを見つめる。おかしいわとつぶやいたルーリエがゆっくりとマルカを見るために顔を上げて、ほうけたように口を開けた。何もかもの言葉を失ったようにマルカを見つめていた。
「オブリアルテは闇よ。闇そのものよ。闇は夜よ。わたしたちの眠りを守ってくれる夜なのよ。ただ聖母マリアルテは、眠るだけなのよ」
「でもこれじゃあ、こんなんじゃ、聖母様は死んでしまうわ」
 囁くような声だった。マルカは首を横に振る。ルーリエは変だ。ルーリエは、怖いことを言う。マルカにはルーリエがわからない、わからなかった。とても怖いということしかわからなかった。
「聖母マリアルテはもう死んでいるわ。死ぬはずがないのよ、ルーリエ」
「あなたの愛はおかしいわ。こんなんじゃ、こんなんじゃ、あまりにも聖母様がかわいそう」
 ほろほろと涙を流し口を抑えて嗚咽するルーリエの言葉の意味がわからなくて、マルカは泣きたくなった。おかしいのは、ルーリエのほうだ。マルカはただオブリアルテを、この場所を、夜と同じ世界を、愛していたいだけなのに。
「わたしの愛はおかしいの?」
「おかしいわ、そんなの、愛なんかじゃないわ」
 高く設計された天井を、しっかりとした骨組みのされたアーチを、折れることなどないだろうと思わせる柱を、柱にそっと寄り添う燭台を、歩いても音のしない冷たい大理石の床を、まるごとすべて愛しているだけなのに。マルカの王国ではないオブリアルテをただ愛しているだけなのに。
「おかしくってもそれがわたしの愛情なのよ。ルーリエ、それでも信じられないなら、明日、あした、今度はあなたが噴水で見ていて。わたしが証明してみせるわ、ルーリエ」
 手の届かない場所にいながらマルカは、ルーリエに手を伸ばそうとしてそして引っ込めた。ルーリエが子どものように泣きじゃくりながら、マルカを見つめていたからだ。
「何を証明するの、マルカ」
「わたしの愛を」
「それは、見ればわかるの?」
「きっとわかってくれるわ。ルーリエは賢いのだから、きっと。今日は修道女の部屋で寝てちょうだい、ルーリエ」
 それはいい考えに思えた。マルカだけができるマルカだけの証明だ。これならきっと、聡明で賢いルーリエならわかってくれることだろう。
 マルカはにっこりと微笑んだ。自分よりも年長のルーリエを慈しむように、マルカはにっこりと微笑んだ。

  *

 ルーリエが目を覚ましたとき、修道女はまだ鼾をかいていた。白いフェルトの靴に足を入れて腫れぼったい目元を抑えながら、白いリネンの寝巻きから紺色のワンピースに着替える。ちらりと奥の方に見える窓を見ると、はらはらと雪がこぼれていた。今日も空は曇天だ。
 マルカは何をしようとしているのだろう。
 ルーリエはマルカの青い瞳を思い出す。自分と同じ色のはずなのにどうしても同じ色とは思えないマルカの瞳を思い出す。それはひとえに彼女が聖母マリアルテを愛していないからだからなのだろうか。それとも彼女はこんなところにいながら、何も信じていないからだから?
 ルーリエにはわからない。マルカは変だ。いつもマルカは、ルーリエは変だというけれど、変なのはマルカの方だ。
 ぐすりとまた涙ぐんだルーリエは目をこすり、そっと修道女の部屋から躍り出る。この部屋からオブリアルテにいくには礼拝堂を抜けなければいけない。迷いそうになりながらもオブリアルテの手前の踊り場に辿り着き、ルーリエはマルカが来るまで待ち構えようとして、それはいけないのだったと思い出す。マルカに一度連れて行ってもらったとき、彼女はしつこいくらいに火の当番の子に会ってはだめよといっていたからだ。きっとマルカは今もルーリエが噴水に腰掛けるのを待っている、腰掛けて初めて安堵しながら辿り着くのだ、そんな気がした。
 階段を上りはらはらと雪が降り続ける中庭に降り立つ。しゃくりと霜が音を立てて、ルーリエの白いフェルトの靴を汚した。噴水の淵に腰掛けたそのときに、オブリアルテの左手がぼうっと明るくなった。
 マルカだ。
 松明を持ったマルカは、もう片方の手に黒い何かを持っていた。それは彼女が足を動かす度にひらひらと揺れて、ときおり炎を反射させて美しい色をルーリエの目に突き刺す。やがて彼女が持っているのが刺繍された黒い布だということに気がつき、ルーリエは思わず立ち上がった。マルカは、マルカは、何をしようとしているの?
 やがて四つの燭台に火をつけたマルカは、あのタペストリーの前につくと立ち止まり、こちらを振り返った。黒い布をひらりと振って、マルカは笑う。まるでルーリエが見えているかのように笑う。
 マルカはタペストリーに細い指を伸ばし、自身の背中に黒い布を羽織った。まるでタペストリーの中にいる聖母マリアルテに祈るように跪き、さながら邪教の信者のごとく真っ黒い闇そのものになった。オブリアルテそのものに。
 はっと、ルーリエが息を飲んだそのとき、マルカの身体が火に包まれた。ぼおっと音を立てて立ち上るマルカの身体からタペストリーへと火は燃え移り、オブリアルテが明るく光る。
 けれどルーリエが言葉もなく見つめているその間にも、柱を挟んだ向こう側は闇を保ったままだった。何事もなかったかのように、ただそこに夜を保ったまま、そこにあるだけだ。
 マルカの声は、聞こえなかった。
 マルカの愛は、誰にも届かない。

Written by 朱緒
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