第一部 に溺るる死者とに向かう生者

一章 ガストリエの聖流

01

 すべての始まりは、きっと彼が死ぬ今日という日だろう。
 そう内心でひどく冷たい声音が言った。私はそれに対してうなずきながら黙って、静かに逝こうとする彼の冷たく大きな手を握る。たこのできないすべらかなけれどごつごつと骨ぼった彼の手。私の白い髪をくしゃくしゃにした温かかった、彼だけの手。
 心の中で呟くうちにいつのまにか頬を何かが伝っていた。ぼろぼろとそれは私の意志とは関係なく零れ落ちる。わずかに熱い滴が彼の手に落ちるその様は、まるで水の形をしたたった一つの生命が、一瞬で奪われていくようだった。強く彼が握り返してくれることを望み、その細長い指を持つ手をすがりつくように握る。そうしていながら自分がこんなにも彼を、たった一人の兄を愛していたことを自覚する。どうして私はこうなのだろう。いつもすべては私の手から流れ落ちた後だ。自覚することが遅すぎる。そしてほら、今もまた。
「……兄様」
 小さく呟く。数日間物を言わなかった私の声は、無理矢理吐き出されたかのようにかすれていた。喉がすれたように痛い。だけど私はまるで壊れたかのようにその呼び名を囁いた。何度も何度も飽きることなく。
「兄様」
 人はみな、生きている中で叫びだしそうなほどの死を、絶望を抱えて生きている。いつか父が呟いた言葉だった。それが痛烈なほどに私の核心へと迫り、だから私はかすれた血の滲むような声を繰り返す。
「兄様」
 分かっていた。納得していた。だけどそれは理解していたわけではなかった。許容できないような現実が目の前にあることを初めて知った。そして同時に、誰しもがそんな痛みを抱いて生きているということを、彼を喪った今、強烈に知覚した。
 お願いだから、目を。目を開けて。その口でその声でその手で私を呼んで。
 そう狂いだしそうなほどに叫ぶように想っても、泣き出しそうな引きつった声が彼を呼ぶだけで。
もう、彼に私の声が届かないことを知る。
「……兄様」
 誰かが、いや、ウィルが私の肩を抱くその温かさが、余計彼の手の冷たさとの差を感じさせてびくりと震える。離さなければ、この手を。もう彼の手を離さなければいけないのに。そう頭の片隅で分かっていても私の手は彼にすがるように離れることはなかった。ウィルの優しさに救われていたはずの私は、だけど今望むのは喪った彼の冷たい手だった。
「姫。……いえ、殿下」
 ウィルの声が氷柱のように私を突き刺す。
 止めて。そう呼ばないで。私は違う。私は違うのよ。
「一人に、して」
 搾り出すような声が哀れだった。寝台の上の兄とその横に座る私を置いて、部屋にいた人が音もなく去っていくのを感じる。最後まで私の肩を抱いていた彼は、一度だけ私の頬をかすめるように撫でて去っていった。生者が私だけになったところで死者との距離がひどく縮まったように感じる。死はこれほどまでに近く、いつでも私たちと接しながらそこにある。今にも笑い声がすぐ真横から聞こえてきそうなほどの。
 兄の指は動かない。当たり前だ。彼はもうどこにもいない。
 ゆっくりときつく握っていた手を離す。この手を離すことが決定的に何かを変えるだろうことを感じながら、そうっと壊れないように。彼の冷えていくその手を毛布の中にそっと仕舞い、眠るように死に逝く彼の顔を見つめる。そしてずっと胸に秘めていた言葉を告白する。
「兄様。私は、これから幾人もの人を殺すでしょう。私自らの手を赤く染め、セストを身に纏い名もない剣で赤を撒き散らす」
 奇妙な独白だった。ただ淡々と事実を述べるように告げることはすべてこれからのもの。終わってしまった罪を懺悔するのではなく、未来に起こりえる罪を懺悔する。それは、けれど死者に対する冒涜ともまた祈りとも思えるような告白だった。
「守ってもらっていた、私は、ロッティは、あなたと共に朽ちる」
 自分の半身を引き裂かれるような痛みと共に、ぽろりと透明な涙が私の頬を伝う。静かに吸い込まれるように、兄のその白い頬へと零れて落ちた。
 必死に声をつむぐ。今、口にしなければそれは永遠にしこりとなって、自分を傷つけるだろうと思ったから。
「私はこれから皇女シャルロット・フィオラ・イチェリナ、「氷の姫」の仮面を被る。その仮面が鮮血によって赤く染まり息もできなくなるまで、永久に被り続けることを今朽ち逝くあなたに」
 誓う。
 私をすべてから守ってくれた優しいあなた。自分の寿命をも省みずただすべてを守り抜こうとした、私のたった一人の兄にしてイチェリナ国の守護者。自分の命すらも守れずに、けれどあなたは逝ってしまう。何故生きようとしてくれなかったの、どうして死ぬことを許容するの、どうして私を守ろうとするの。
 私は理解している子供だった。いつか義兄と叔母の二人を赤にまみれさせ、この国を導く王とならねばならないことをもうずっと幼いときから理解している子供だった。守ってもらう必要などなかったくらいに強い子供だった。
 いいえ。
 はっきりとした否定が心の中に浮かび上がり、首をかすかに横に振る。嘘だった。守ってもらわなければ何も理解できず、何も知覚することもなかった。彼がいたから、あなたがいたから。
「あなたは、私を守ってくれた」
 弱い言葉。強いはずの私の口から零れるそれは、嗚咽にまみれた絶叫だった。叫んではいけない。これ以上泣いては。だけど一度堰を切った涙は止まらない。止まることなく頬を伝い、唇を横切りいつの間に口に当てた手が声を押し殺す。
 ずっとあなたに言いたくて伝えられなかった言葉がある。
「私を、守ってくれて、ありがとう」
 ありがとう。
 さよなら。