第一部 に溺るる死者とに向かう生者

一章 ガストリエの聖流

02

 温かい手が私の頬を撫でてはっと目を開ける。目の前には翠の美しい双眸があり私はかすかに驚く。
「こんなところで眠ってはお体に障ります」
 心配そうに彼は言いソファから身を起こす私の肩にやわらかいローブをかけてくれた。 感謝しつつ、けれど身体は重い。ちらりと顔を上げて周りを見ると部屋には私と彼しかいなかった。 安堵すると同時に涙が頬を伝う。
「殿、か」
「止めて」
 鋭い声がウィルの声を遮った。そしてそれが自分の声だと知り絶望によく似た虚無を抱く。手で目を覆った。
「止めて。二人だけの時はそう呼ばないで」
 これから私は公の場で幾度もそう呼ばれることになる。その度に傷をえぐっていては仕方がないけど、彼のその声でそれを呼ばれると血が溢れ出すようだった。 その温かい生者の声で冷たい死者の傷に触れないで。
「……申し訳ありません」
 差し出されたハンカチーフで目をそっと拭う。いつまでも泣いている暇はない。 私もまた死に神の鎌で狩られるならば、やらなければいけないことを成し遂げねば。時間はあまりないのだ。
「……葬は。いつ行うの」
「シャルロット様が回復なされてから、とサルサ様から命じられました」
「そう。方法は」
「あなた様の思うとおりに、と」
 その言葉に私は思わず自嘲めいた薄い笑みを浮かべた。
「彼は、優しいわね」
 ウィルはけれどその言葉に不快そうに顔を歪めた。なんでもないと、軽く首を振って立ち上がる。 長時間ずっとこの体勢のままだったから紺色のドレスには皺が寄っていた。 それを直しながら窓をちらりと見ると、柔らかい朱色がイチェリナの空を染め上げその中でただ一つの黄色が、まるで星が火を噴いて落ちるようにゆっくりと沈む。
 それから目を逸らし彼を振り返ると、黒の喪服をほんの少しよれた白いベッドに丁寧に置いているところだった。 何も言わずに近寄りそっと黒いその柔らかな生地に触れる。十五歳になると同時に兄から送られたものだった。 彼らしいジョークにそのときは随分と腹を立てたけれど、今は彼から送られて本当によかったと思えるから不思議だ。
「メアリを呼んで。着替えるわ」
 続けて葬儀を執り行う前に、小食を出そうとしていたらしいウィルは驚いたように私を振り返り、心配そうな顔になった。
「何かお食事をとられたほうがよろしいです。朝から何もお食べになっていないでしょう?」
「いい」
 いつものように切って捨てるように言うと、彼は一度手を止めて私を不安そうな瞳で見つめた。 その手に持っていたティーセットをそっと白い小さなテーブルに置いて、軽く礼をし部屋からするりと抜け出した。
 それを最後まで目で追ってから椅子を引いて、彼が置いてくれた紅茶を淹れながら読みかけの本を手に取り、表紙を撫ぜる。 深い紅蓮に柔らかい琥珀色が文字を描く。何度ウィルとメアリと読んだか知れないほど、幼いときからの愛読書。 自分でも、これを手に取るときは感傷を抱いているのだと理解しているのに、なかなかその癖を止めることはできなかった。
 バルローナの鏡。
 とある国にバルローナという鏡匠がいた。 彼はある日突然街に住み着き、ほぼ食事や睡眠をとらず誰とも喋らないで、ただ淡々と飽きることなく美しい鏡を作る。 街の人々は最初鏡しか作らず誰とも接することのない彼を気味悪がったが、彼が作った鏡を見て誰もが彼を褒め称えた。 それはどんな鏡よりもはっきりと自分自身を見返してくるようで、恐ろしいのだけれど何度でも見たくなるような、そんな魅力を秘めていたからだ。
 もともと芸術を好んだその街の人々は彼の鏡をこぞって買い求め、若者は弟子になることを望んだが、彼は鏡をあまり他者に譲ることはせず弟子をとることもなかった。 鏡を譲らない彼に痺れを切らした強欲な貴族が、無理に彼の工房に押し入り鏡を奪い取ろうとすると、彼は一つの大きな鏡を貴族に向けたという。 そしてそこに映った自分の姿を見た貴族は、正気を失った。そんな定かでもない噂が流れ、人々は彼に対して確実な尊敬と畏怖を同時に抱かせた。
 そんなある日、その国は他国と戦争を行うことになる。男手はみんな軍に徴収され、街に溢れていた金属はすべて鉄の弾丸へと姿を変えるために奪われた。 もちろん人々は金属を奪われるという段階で鏡匠バルローナの姿を脳裏に思い浮かべ、そして不安に駆られて彼の住む小さな工房へと向かった。 案の定バルローナはやってきた軍人に鏡を向けていた。軍人は鏡を見て絶叫をあげ、まるで殺される寸前の牛のように哀れに逃げ惑った。 けれど街の人々はその鏡を見ても恐怖するところが何一つない。そして鏡の後ろに珍しくそっと微笑む彼を見て、誰も動けなくなった。
 彼の左目は鏡のような金属が埋まり、そしてその喉からは金属が飛び出していたからだ。もはや彼は死んでいたのだ。
 何度読んでも彼の凄惨な死に様が忘れられない。ただの伝承であるはずなのに、ひどくバルローナの人間らしさがどうしても伝説や伝承の類にしてしまうことを拒絶している気がする。 人間らしさ。そんなものがどこにあるのだと兄やメアリは笑うけれど、私とウィルはそれを感じていた。 なぜならバルローナが求めていたのは。
「シャルロット様」
 いきなり上から明るい声が降ってきてはっとする。顔を上げるとそばかすの目立つ顔に優しい笑みを浮かべたメアリがいた。 目を瞬かせながら頷き、自分の愚かさに小さく苛立った。いつかこうして私は死ぬのかもしれない。 ぼんやりと考え事にふけりあっけなく。
「またバルローナの鏡、読んでいらっしゃったのですか。お好きですね」
 彼女は私の手にある紅蓮の本をちらりと見ながら、喪服の下に着る薄いドレスの手入れをして私に立つように合図をし、背に当ててサイズのチェックに余念がない。
「また少しお痩せになられましたね……」
 本をテーブルに置き紺色のドレスを脱ぐ。着慣れない薄いドレスをメアリに手伝ってもらいながら身に着けて、その上に兄から送られた喪服を着る。 柔らかい手触りと包まれる冷たさに、ふと兄の冷たい指を思い出して、震えた。
「大丈夫ですか?」
 心配そうに顔をうかがうように見られ、目を閉じながら首を振る。 椅子に座るとメアリは、ウィルが持ってきてくれた紅茶を淹れなおして私の冷たい手にその温かい湯気ののぼるカップを持たせた。
「温まらないと。具合があまりよろしくなさそうですわ」
「いいのよ」
 私は感情を言葉で伝えるのがひどく苦手だ。だから優しい感謝を述べられない。 いつも言葉は立ち止まりつかえてそして私の中に還元される。もどかしいとは思う。 それでも十数年一緒にいると、私の一見棘のあるような言葉や情けない一言から感情を読み取ってくれるから、私はウィルと彼女に甘えてしまうのだ。
 私のそっけない一言に一度彼女は逡巡し、やがて仕方がないというように微笑んでこくりと頷いた。 赤い癖のある巻き毛が優しく揺れる。私の後ろに回りきつく縛られた髪をそっと解き、丁寧な動作で梳く。 カップを持たされた手がじわじわと温かくなって自分がはっきりと生者なのだと自覚させられる。
 不思議だ。兄は私に死を教え、メアリは私に生を自覚させる。 二人は私に対する姿勢が同じなのに私に与えるものは、すべてにおいて正反対だ。
 ならば、ならばウィルはどうだろう。彼は私に何を与えるの、与えたの。
「さ、できました」
 メアリは満足そうに笑って私の手からそっと紅茶のカップをとりテーブルの上に置いて、私を立たせて喪服の最後のチェックをする。 どこの誰が死んだところで、きっとこういうところは変われないのだろう、私が皇女である限り。 それを望んでいるのか憎んでいるのか、自分のことなのに何一つ分からない。
 人間らしさのかけらもない、どうしようもない皇女。
 それが、私。