第一部 に溺るる死者とに向かう生者

一章 ガストリエの聖流

03

「氷の姫」。
 国民が私のことをそう親しみを混ぜて呼んでくれているのは知っていた。 もっとも彼らが言っているのは私の容姿のことだけで、けれどその呼び名は言いえて妙だと思う。 白い雪のようなやわらかい髪、まるで部屋から出たことがないかのように病的に澄んだ肌、母譲りの海のように深い瞳。 一般に国民に知られる第一皇女、シャルロット・フィオラ・イチェリナはそのように知られて、そして信じられていた。 だから誰も私の本来の残虐性を、私の狂気を知ることはない。 きっと生まれたときから一緒で、英雄イエラの願いを、鏡匠バルローナの望みを共感しあえたウィルさえも知らない。
 私はそんなもの、本当はどうでもいいのだ。国民がどうなろうと誰が死のうと。
 けれどそういって放り出すにはあまりにもすべてが大きすぎた。兄が残した私へのすべて。 慈しむべき国民、救うべき子等、組織だった軍隊、高度な技術、最後の二枚の切り札。放り出してもいいのだ。 すべてを捨て去って誰からも憎まれながら首を斬られても。けれど私は恐ろしい。 すべてを失って誰からも憎まれることになった私を、想像して嘲ってしまえる自分を自覚してしまうことを。 そう、私は自分が、シャルロット・フィオラ・イチェリナという私の被った仮面が、憎まれることを望んでいた。
 自分がそう望んでいることに気づいたとき、確かに私は何かを失くした。 それはきっと兄を喪った今の空虚な穴よりも、より大きくて深い。 死も生も望みも懺悔も祈りも罪も願いもすべてが混沌と化した穴が、私の中に巣食っている。
 だから私は凍り付いていなければいけない。皇女、そして後に女王となっても未だ。
「少し、顔色も良くなりましたね。ウィルヘルムを呼んでまいります。少々お待ちください」
 そう彼女は言い私を座らせて一礼してから部屋を出る。メアリの柔らかい赤毛が消えるのを眺めてふっと目線をずらす。 私の部屋はおそらく皇女という立場の者の部屋にしては散らかっている。 私があまり物を片付けるのが得意ではなく、また従者である前に一介の小貴族でしかないウィルが部屋を整えることなどできるわけもなく。 必然的にメアリにその仕事が任せられたような物なのだが、彼女も彼女で私の侍女としての役割が異常なほどに忙しい。 半分は故意に仕事を任せているのだが。
 立ち上がり隣接している武器庫の扉を開ける。真っ先に目に入るのは白い刀身だった。 どこにも穢れのない清らかな剣。幾人もの命を奪ってきた私の心。この刀匠に造られたわけでもない一本の名もない剣は、だけれどこの十数年ずっと側にあった。 穢れた清らかなそれ。目をつむりそっとその白い刃に指を這わせる。光らしい光のない武器庫の中で、刀身に触れる指が艶かしくゆるやかに這う。
 この剣に触れるたびに彼女との字だけでの会話を思い出す。
(私たち王族は殺し方も、殺され方も知らなければいけない)
「本当に、ね」
 小さく呟くと冷たい牢屋のような倉庫の中に、ぼんやりと響きここが少し冷たいことに気づく。 指を離して振り返るとウィルが感情の読めない表情で私をじっと見つめていた。その様子が、まるで行き場を失った子供のようで、愛しくて哀しくて私は彼に手を伸ばす。 自分から伸ばしているのに届かなければ良いと、するりと突き抜けてしまえば良いと思いながら。
 だけどもちろん彼は死者ではない。私の伸ばした指は、すり抜けることなく彼の頬にそっと触れた。 冷たかったのか彼はびくりとその身を震わせ、それからどこか安堵したように、ずっと身に纏っていた刺々しい空気を霧散させた。 彼の白い頬は私のように女として最上級の生活を送っている者のそれより、よほどきめ細かく柔らかい。 けれどちゃんと男らしくほんの少し頬骨が上がっていた。幼いときから変わらない、彼。
 変わらない、わけではない。いつからか彼は私を見下ろせるようになり、私の着替えを手伝うことを拒否するようになって、そして一緒に眠ることはなくなった。 私もあなたも、大人になった。そう胸の中で呟くたびに、私の心はきしきしと、音を立てて軋む。
「ロッティ」
 彼はひどく優しくて切なげな瞳で私を見つめながら、まるで今口にした言葉が宝石だとでもいうかのように大切に、死んだ私の名を呼んだ。 ぴたり、と、彼の頬を撫でていた私の手は止まる。その名前を呼ばれていた私は、死んだのだ。
 手をそっと下ろす。私にできる唯一の愛情表現は、けれどもう二度とできないだろうと覚悟しながら。 彼は突然離れた手に目を見開いて私を困惑したような目で見つめ、私は首を振って彼の横を通り過ぎた。
「シャルロット、様」
 情けない、今にも泣き出しそうな子供の声を上げて彼は、私を呼び戻そうとして、振り返らないと知ると、私の手首を優しく恋人を抱きすくめるようにそっと掴んで振り返らせる。 翡翠のように優しい眼差しが、まっすぐに私に突き刺さり不意にどうしようもなく泣き出したくなった。 あなたのその瞳。私には、あなたの底を見つけられない。こんなにも、こんなにもあなたを。
「放して、ウィル。無礼よ」
 嗜めるような声が彼を打った。彼は何故かすがるように私を見、泣き出しそうに微笑んだあといつもの、ただの従者である彼に戻った。 そうさせたのが自分だと分かっていながらも、泣き出しそうな私は変わらないままだった。
「申し訳ございません。
 葬は、何時から執り行いますか」
「もう他の者は準備ができているのでしょう。夜になったら行うわ」
「どのように」
 王の葬式はたとえどれほど憎まれていようとも盛大で、そして美しい。 脳裏に父の遺体が火となり灰となりそして骨になったことを思い浮かべ、けれど私の唇からは違う言葉が転がり落ちた。
「水葬」
「え」
「水葬が、いいわ」
 母のように何かを成し遂げたわけでもなく、最期の最期まで生命の火花を散らして消えた父のようでもなく。 兄はただ、流れる濁流に溺れていた。彼の白い頬が冷たい水に沈み、柔らかい栗色の髪が透明に浮かび上がる様を脳裏に浮かべる。 彼は、きっと美しいだろう。
「水葬、ですね」
「ええ。シクルグルの川に流しましょう。今日限りはあの川に立ち入ることを禁じて。漁師には私から手紙を出すわ」
「かしこまりました」
 そう答えて私が首にネックレスをするのに手間取っているのに見かねて、彼は私の手からネックレスをとり丁寧につけてくれた。 そうしながらも、彼の戸惑いは隠しきれていない。
「いいのよ、ウィル。水葬は白痴に対して行う葬式ではないわ。いつまでもそんなものに囚われないで。愚かよ」
 水葬は、遥か昔からイチェリナ国に伝わる白痴に対する葬式として行われていた。 羊水のような流れにくるまれれば、失ってしまった記憶や知識が蘇ると信じられ白痴の子供が生まれると、彼らはその子供が死んだとき川に流した。
「申し訳ございません」
「それに分かっているでしょう。兄様は白痴ではない」
「勿論です。ではサルサ様に伝えに参ります。メアリを呼びますか」
「いらないわ」
 彼は一度頷いてさっと礼をして私室から姿を消した。それを見送った後、机の上に乗せたままの紅蓮の本を書棚に戻す。  同時にノックの音が私しか存在しない空間に、空虚に響いた。