第一部 に溺るる死者とに向かう生者

一章 ガストリエの聖流

04

「どなた」
「シャルロット?」
 その声に一瞬返すべき言葉を忘れる。だけどすぐにそれを振り払って幾分か安堵を滲ませた声で返す。
「入ってくださって大丈夫ですよ、義兄様」
 言い終わると同時に扉が開いて、銀に近い長髪を軽く首の後ろで結わいた、義理の兄、ベアード・トルス・イチェリナが入ってきた。 理知的な濃い藍の瞳がまっすぐに私を凝視して、それは哀しげに歪んでいたが瞳にだけ浮かびあがり、表情はいつもと同じ優しげな笑顔だった。
「大丈夫、かな」
 そういいながら私が差し出した右手の指先に、跪いて軽いキスをする。私はその優しい声にほんの少し和みながら答えた。
「心配して下さったのですか」
「勿論。ウィルヘルムは?」
「葬の方法を決めたのでサルサ老師に伝えるように使いに」
 自然に葬、という言葉を口にした私に彼はわずかに驚いたように私を振り返る。そして寂しそうに笑った。
「もう、受け入れたのかい」
「受け入れなければ、進めません」
「何も前進だけが全てではない」
「……それは、そう、ですわね」
 テンポの良くなり始めた会話が私のその言葉にすとんと、落ちる。彼はそっと私を抱きしめて、頭を優しく撫ぜた。 懐かしい感覚。私には二人も兄がいた。
「いつもの君なら、愚かな。そう言うのにね」
 柔らかい声が突き刺さる。いつもの君。いつもの私。それは、どこにいってしまったの。
「義兄様は、私が傷つかないとでも思っているようですね」
 しっとりとした声が声帯から漏れる。本当は今も泣き出しそうなのだ。 けれど私が涙を見せることができるのは、彼ではない。
「そういうわけではないよ。ただ、君はいつも強くあろうと望むからね」
「強くなければ、王にはなれません」
「彼女は確かに強かった。だが、精神では弱い部分もあった」
「人は誰しもそれぞれの強弱を持つものでしょう。彼女は、王に相応しい。なぜなら彼女は強く在ったから」
「強くあれば王になれるとでも?」
「王を王たらしめるものは強さ、私はそう思いますわ。否、そう、思いたいのでしょうか」
「強さだけが王になる資格ではないと僕は思うけどね。君は強さに対して貪欲過ぎる。彼女、イエラは果たして本当に強かったのかな」
 英雄、イエラ・イチェリナ。私の起源にして存在の証明になる過去の人物。 歪んだ世界を造り上げようとした狂王を壊し、純粋なるその意思のまま今の世界の原型を造り上げた、たった一人のヒーローにして、ヒロイン。 元はと言えば神官の娘で、そうあるにも関わらず農民や貴族と分け隔てなく接し、裸足で田の中に入り耕すのさえ手伝ったという純真すぎる彼女。
 そんな彼女が、狂王を殺すに至るのにはどれほどの苦痛を伴ったのだろう。 そしてそれに打ち負けることなく、最後までその純潔を貫いた痛みはどこに還元されたというのだろう。
 痛みを隠し通すことはできない。人は、例え英雄であろうと弱いのだから。
「彼女は、とても強かった。私は彼女の意志を受け継ぎたいのです、義兄様。それがどんな痛みを伴うことになろうとも、私は彼女のような純真なる光になりたい。 だから私は強くあらねばならない」
 そういいながら、けれど私は小さく心の中で呟く。私の望む強さとは何を示しているのだろう。 分からない、判らない、解らない。答えなど、存在すらしないのかもしれない。
「それでも、君は泣いたね」
 すっと、ベアードは私の頬にその白く細長い指を這わせた。目は、確かに赤くなっていたのだろう。 彼の濃い藍色がまっすぐに私を見つめていた。彼の底には何がある。それがふと、知りたくなって見透かすように瞳を見つめた。 浮かび上がるのは、深い苦悶と、執着?
 彼は私の視線の思惑に気づいたのか、さりげなく目線を逸らし、同時に私をその腕から解放した。 頬をなぞった指は代わりに私の頭を再度撫ぜ、柔らかく、笑う。
「光を望むなら、強くあるのと同時に弱くなければいけないよ。強さと弱さは同じものなのだから。 お兄さんを喪ったことで泣くのは強さでも弱さでもない、痛みだよ。だから、泣くことは弱さではない。賢い君なら分かるよね」
 詭弁だ。そう応えようとして、それでも私の口からは何もこぼれなかった。 その優しい詭弁に逃れることを今だけは、許されたい。それも、弱いことなのかもしれないけれど。
「ええ、分かります。でも、もう散々泣きました。これ以上泣くのは嫌ですわ」
 そういうと彼はくすくすと可笑しげに笑った。
「君らしい答えだね。そういえば、彼の葬儀はどうするんだい」
「水葬にいたしました」
 簡潔に応えると案の定彼は大きく目を見開いた。 戸惑ったように声をつまらせ私をおろおろと見つめる。面白い人だ。
「けれど、それは白痴に対して行う葬だよ。分かっているのだよね?」
「義兄様。白痴に対して行う、だなんて誰が決めたのですか。そんなものは土地に染み付いた慣習です。 それに、兄様は火にくべられて逝くよりも、水に流れて逝って欲しいのです」
 静かに答える。きっと私は他の貴族に非難の目で見られるのだろうけれど、それでも私はこの意見を変える気はなかった。 兄は火よりも水のほうが合う。
 なんとなく彼も想像したのだろうか。ベアードは唖然と私を見たが、眉をひそめやがて納得したように頷いた。
「確かに、彼は火に焼かれるよりも水に溺れたほうが美しいだろうね」
 私も答えるように頷いて、ほんの少しだけ微笑んだ。ぎこちない笑みになっているのを感じながら、それでも。
「サルサ先生もあまり文句はいわないだろう。レティリア叔母は、……僕から言っておこうか」
「そうしてくださると助かりますわ」
「では先に彼女に会いに行くとしよう」
 そういって彼はまるで道化のように可笑しなお辞儀をし、振り返り扉に向かう。 そして扉に手をかけて、私を一度振り返った。ふざけた仕草など一つもない、真剣で誠実な眼差しを私に投げかける。
「シャルロット。君に一つだけ忠告をしよう。何、ただの戯言だととってくれて構わない。
 君は大切な者を喪った。それを、忘れてはいけないよ。僕や、彼女に全てを奪われたくないのなら」
 濃い藍色の瞳は、私の後ろから指す夕陽によって奇妙な紫が生まれていた。それは、きっと彼の国、彼のトルスを示す色。
「勿論、解っています。あなたも、彼女も、誰も味方ではありえぬことくらい」
 そう返す。それに、彼はひっそりと笑った。優しく冷たい笑みだった。
「そう、それで良いのだよ。君はそうあるべきだ。
 では、また後で」
 今度こそ部屋を出ようと彼は扉を開けて、私は知らず微笑みながら、釘を刺しておくことにする。
「義兄様。酒池肉林もほどほどになさって下さいね」
 濃厚な酒の香が移ってしまいそうだ。