第一部 に溺るる死者とに向かう生者

一章 ガストリエの聖流

05

 私が老師に伝えた内容は、瞬く間に城中に知れ渡ることになった。それは勿論そうだろう。 兄はこの国を護り抜いた王だ。静かで聡明で優しい王。国民という国民を必死に護り、本当に愛され慕われた尊い国王。 そんな彼を、白痴と同じ葬式で送るというのだから、きっと私は憎まれる。
 それでも。
「兄様、あなたなら、分かってくれますよね」
 そう呟きながらそっと彼の白い頬を撫ぜた。もうすでに化粧師が来て死者としての化粧が施された彼は、まるで蝋人形のように美しい。 剥製にしてしまったかのようだ。
 兄を乗せる小さな木の船は重すぎず軽すぎず、きちんと造り上げられ細やかな装飾が施されたものを選んだ。 柔らかい羽毛を広げ純白のシルクをその上にかぶせる。そういった作業を他者に任せるのは酷く辛いから、兄を最期まで見守り続けてくれた乳母と従者と三人で行う。 メアリや他の侍女は私を止めようとしたけれど、代わることを拒否し彼の眠る場所を黙々と整えた。 そして彼をそっとその船に乗せて、身内だけととってもいいような三人で黙祷を捧げる。
 最後に、彼の従者が呟いた言葉。
「何故、あなたがいなくならなければ、いけないのでしょう」
 その言葉が突き刺さる。ちらりと男を見ると、泣き出しそうな脆い瞳で恨みがましげに私を見つめていた。 それは、そうだ。乳母と従者がいなくなったあと、静かに横たわる彼の側に座り込みながら、薄く笑う。
「何故あなたがいなくならなければ、いけないの」
 そうだ。同じイチェリナ王家の本筋ならば、私でもよかったのだ。別にあなたが死ぬ必要はなかった。 ここまで愛され、慕われ、尊ばれたあなたが死ぬ必要なんて。ないどころか、間違ったことのように思う。
 イチェリナ王家の本筋は、皆一様に短命だ。生まれてまもなく亡くなる者が多く、運良く成長したところで精精四十年程しか生きられない。 それに兄はこの世に生れ落ちた瞬間、一度死んでいる。産声を上げられなかった彼はけれどどうにか生き延びて、それでもすぐにその命が事切れることすらも、よく理解していた。 私も兄自身も、彼のその若すぎる寿命のことはよく分かっていた。
 同じように死に神に狩られるというならば、何故彼奴は私ではなく、あなたを選んだのだ。
 解っているはずだった。彼の命の制限は日に日に短くなっていることを。それでも、兄を私から、彼を従者から、慕うべき国王を国民から、奪い去った死に神は、なんて醜いのだろう。
「何故、あなたが、死ななければ、いけないの」
 小さく漏らしながら、静かに頬を涙が伝うのを感じた。

 シクルグルの川の中流域は、一様に黒と白に染まって見えることだろう。愛された国王の葬儀なのだ。 それがどんな方法であったところで人々は彼に別れを告げに来る。式が始まる一時間も前から、そこはたくさんの人でごったがえしているようだった。 それを川のすぐ側に即席で作り上げたテントの中で肌に感じる。空はいつの間にかどんよりと厚い雲が覆っていた。
「シャルロット嬢。雨になったらこの川は氾濫が起きやすい。そちも解っておるだろうに。このまま施行したら下手をすれば何人かが川に落ちるぞ」
「存じています。海上保安隊に出動要請を行いました。下流域付近で待機を命じております」
 静かに返すと深い緑の眼をした老人は、不可解そうに私を見つめる。
「何故水葬にこだわる」
「こだわっているわけではございません。ただ、それが自然だと思っただけです」
 言い終わると同時に外から声がかかる。
「殿下、サルサ老師。準備が整いました」
 問答は終わりだと告げるためにも、立ち上がり彼を支えて一緒に外に出る。すぐに彼の侍女が私と代わるべく近づいてきたので、彼女に任せると老人は静かな声を私に投げた。
「一番初めの務めじゃ。しっかりとやっておいで」
 振り返らなかった。深く頷いて傘をさそうとするメアリを制し、川べりに近づいて船を浮かべる作業を真近に見る。 船に蓋はされない。彼の周りには誕生花である白いガストリエが溢れていた。
 ふと人々の手が目に入る。ここに来る途中の検問で、国王の葬式に参列する者に渡される同じ花は、本来船に乗せられるべきはずのものだ。 船に乗り切らなかった花は、普通認められたならば川に流される。そう、認められたならば。
 私のしたことは、間違っていない。
 私が現れたことに気づいたのか、川の近くからだんだんと、静寂が広まっていくのを感じる。向けられる視線は好奇と非難、不躾な蔑み。 けれど、それに屈するわけにはいかなかった。
「イチェリナ国王、アルドレッド・フィリオ・イチェリナ。貴殿は聖なる英雄イエラを祖とし、彼女の純真なる意思を貫き、我らの住まう麗しき国イチェリナを護り……――」
 下らない矜持など不必要。そう叫びたいのを堪え、今にもあふれ出しそうな涙を必死に押さえつけながら、真っ直ぐに対岸を見つめ、決して下を、船に眠る彼を見つめることなく立つ。 毅然としていなければいけない。何者にも屈することなく、真っ直ぐに。
 その様は、貴族や民衆からなんと滑稽に映ったことだろう。愚直に碧い瞳に涙を湛え、それでも流さずに強く立とうとする姿は。 なんと滑稽であまりにも愚かで。
 けれど同時に酷く、美しく哀しい姿だった。
 最初に彼女のその白い手に気づいたのは誰だろう。対岸にいた幼い子供だったのかもしれない。 今となっては誰とも知れることはないが、けれど彼、または彼女が呟いた言葉によって、「氷の姫」は裏切った信頼をわずかながら取り戻したことになる。 本人はそれを熟知していたわけではないのだが。
「シャルロット様のお手、震えてらっしゃるよ」
 小さな声は静寂の中響く追悼の言葉より、近くの者に明確に響いた。対岸の彼らはその言葉を聞き、同時に視線は彼女の細い手に向けられて、目は見開かれる。 ぶるぶると、痛みに堪えるように強く握られた手は、彼女の心にできた傷の深さを示しているかのようだったからだ。
 初めに行動を起こしたのは、息子を白痴として喪った若い夫婦だった。 彼女の手に気づいた彼らは、静かに追悼が終わると同時に、検問の際に渡されたガストリエの花束を、川にそっと投げ入れた。
 ぱしゃり、と響いたその音に「氷の姫」ははっと顔を上げる。対岸にいる彼ら夫婦の顔を判別することはできなかったが、声に頬を熱い物が伝うのを感じた。
「アルドレッド陛下、万歳」
 それが始まりとなった。たくさんの戸惑いが溢れる中、花を川に投げ入れる音が小さいながらもまるで波紋のように広がっていく。 抑えていた涙など、止まるはずもなかった。毅然と立つことは止めずに、けれど静かに涙を流す幼く若い「氷の姫」のこの行いを、民衆は確かに受け入れたのだ。
 追悼を読み上げていた男は、その様子にわずかに微笑みながら締めくくる。
「安らかに、お眠りください」
 同時に船をその場にとどめていた紐が、ぷつりと音を立てて切れる。彼女はその小さな音を聞きつけ苦しそうに顔を歪ませ、恐らく無意識のうちに手を伸ばす。 見つめていなかったはずの、兄を乗せる船に。
 そして哀しい叫びを上げた。
「兄様」

 アルドレッド・フィリオ・イチェリナのこの美しき水葬の日のことを、人々は後にガストリエの聖流と呼ぶ。 この日を境に水葬は本当の葬式の一つの手段として人々に覚えられ、そして「氷の姫」に対する認識を改めることになる。 感情の伴わない冷たい少女から、イチェリナ皇国第一皇女として。
 彼女が即位して最初に行ったのは、兄が亡くなったその日を聖日とすることだった。
 今もシクルグルの川の下流域、恐らく彼の遺体が眠るであろう場所に、白いガストリエの花が柔らかく揺れている。忘れられることなく人々に愛されながら。