第一部 に溺るる死者とに向かう生者

二章 マルドゥブルの花嫁

06

 その話を聞いたのは本人の口からではなく、義兄からだった。
 私室にドクターを招き二週に一度の検診を受ける。今日もまさにその日で、ウィルとメアリがもういない兄の場を埋めるかのように立っていた。 埋められるわけもないのに。そう思いながらけれど二人の優しさにわずかに心が揺れる。
「前回は、何時だったかね」
「先代国王の葬の翌日です」
 ウィルがそう抜け目なく答える。それを聞いてドクターはふふっとその皺だらけの顔をほころばせた。
「そうだった。あの時よく検診を受けようと思ったね。お嬢さんは少し強情過ぎる。あんな状態じゃ結果もろくに出ないと分からなかったのかい」
 手厳しい言葉だ。けれどそれは彼の言うとおりなので返す言葉もなくうなだれる。実際あの日のことは全てに置いて私の判断ミスだった。検診から始まり、すべて。
 それを勿論ウィルとメアリも分かっているから、私の方をそれ見たことかと言わんばかりに見てきた。二人に散々止められたのにその日の仕事を決行したのは私の意志だったからだ。
「申し訳ありません」
「もう何度も言ったようだけどね、お嬢さん。人は死ぬものだ。遺された者はそれを受け入れなければいけないけれど、すぐに受け入れる必要はないのだよ。 ゆっくり時間をかけて飲み込めば良い。それができなければお嬢さんに王の務めは果たせないよ」
 ゆったりとしっとりと、染み込ませるようなその言葉を噛み締める。あんな判断しか下せないなら、確かに私はその日の予定をすべて放棄するべきだった。 今更ながら恥じ入る。
 私にできること、できないこと。残された時間の残量を踏みしめながら、それを見極め物事を成さねばならない。 けれどそうはいっても気ばかり急く。急いても何も成しえないのはよく分かっているはずなのに。
 彼は私の腕から挿していた針を慣れた手つきで引き抜き、メアリの差し出した布でわずかについた血をふき取る。
「今日の検診は終わり。これからの予定は入れているの」
「いえ、ございません」
「そう、それがいい」
 メアリが間髪をいれずに答えてドクターはにっこりと微笑み、頷いた。そして私の顔を見て眉が不満げに寄っているのに気づいたのか、笑みを深める。
「不服かもしれないけれどね、お嬢さん。薬が身体中に行き届かなければ、辛い思いをするのは君なのだよ。 今日はちゃんと休養日として、きちんと休みを取りなさい。また眠らなかったのでしょう。ウィルヘルムが愚痴をこぼしていたよ」
 告げ口に私はウィルを軽く睨む。彼はあわてた様に首を振った。それをドクターは楽しそうに眺め、私の腕に当てていたガーゼを剥がし処分する。 そしてそのむき出しになった腕をゆっくり叩いて、子供のように私を見上げた。
「ちゃんと食べて、少しだけ運動をして、よく眠りなさい。分かったね」
「……ドクターの診察ですものね。分かりました」
「ウィルヘルム、メアリエル。ちゃんと主人の様子を確認しとくのだよ」
「勿論です、ドク」
「お任せください」
 二人にまでしっかりと釘を刺すと、老人は腰を労わりながら立ち上がった。メアリがすっと彼の診察道具が入った重いバッグを軽々と持ち、彼を送るべく先に立つ。 二人が立ち去るのを待っていたかのように、入れ替わりでベアードが部屋に入ってきた。
「おはようシャルロット。何でドクが君の部屋に?」
「おはようございます、義兄様。先日の話をしていたのです。ドクターは兄様の医者でもございましたから」
 迷いなく返す。躊躇いもなく返した言葉はけれど嘘だ。でもそれをあなたは知る必要がない。
 それを感じ取っているのだろうか、彼は更に言葉を重ねようと口を開き、けれど何も言わずに首を振った。 藍色の視線は一瞬だけ私の瞳と交差される。無感情を装えただろうか。そう思い、けれど自分が装うことなく平然と無感情でいることに気がつく。
「そう。やっと、立ち直れたみたいだね」
「ええ。少し、時間がかかりましたけれど」
 答えながら彼に椅子を勧め、ウィルに紅茶を持ってくるよう合図し自分もベアードの向かいに腰を下ろす。 ウィルが出て行くのを気配で確認したあと、逸らすことなく見つめている彼の瞳を見返した。
「今日はどうしたのですか」
「用事がなかったら可愛い妹に会いに来てはいけないのかな」
「ティシエ卿とご会談では?」
「何故君が僕の用事を知っているんだい」
 呆れたような口調にほんの少し笑う。うっすらとあったのも分からないような薄弱な笑み。
「ティシエ卿の侍女の話を小耳に挟んだだけですわ」
「盗み聞きは淑女のする行いではないよ」
「私はまだ淑女ではございませんから。ただの小娘ですもの」
 これをにっこりと笑って返せたならば良かったのだけれど、私は笑うことがあまり得意ではないから静かに彼を見つめながら言う。 案の定彼はその言葉に満足したようだった。
「小娘という割には成熟しているようにも思うけどね。君はもう立派な大人だ」
「立派な大人、なら私は皇女としてここには存在していません」
 もしも立派な大人だと言うのならば、私はすでにこの国の王として頂点に立っていることだろう。 その言葉の意味に気づいた彼は若干顔を歪めて笑った。冷たい眼差しがより凍る。冷徹な眼差し。
「あと三年、我慢すれば君は王だよ。まさか遅すぎるとでも言うつもりかな」
「遅い。遅すぎます。私の準備はもうできている。
 それでも、彼らは私を受け入れる準備ができていないのでしょうね」
 そう呟きながらすっと目線を窓のほうへ向ける。窓の向こうに暮らす数多の国民。 私の愛すべき子等にして、私を認めることができる大多数。不思議だ。私は一人だけなのに彼らは何万人と存在し、ただ一人を認めることにたくさんの時間を消費する。
「受け入れないまま、終わることもある」
 彼の返したその言葉の硬質的な響きに違和感を覚え、彼をきちんと見つめ返すべく視線を元に戻す、と、彼の白い指が、私の頬に触れて優しく撫ぜる。
 何故……。
 何故あなたがその行為を知っている。