第一部 に溺るる死者とに向かう生者

二章 マルドゥブルの花嫁

07

 私の動揺は彼に気づかれてしまったのだろうか。緊張が喉に張り付き言葉を搾り出すのが恐ろしい。それでも必死に、ほんの少し戸惑ったような声を出す。その間中彼の指は、大切なものに触れるかのようにそっと私の頬を撫ぜる。それが、酷く憎かった。
「義兄様? どう、されたのですか」
 不意にその藍色の底が近くなったと思うと、彼の顔は目の前にあった。唇が今にも触れそうなほどの距離。彼はその薄い唇から言葉を吐き出し、温かな呼吸は唇をかすめる。ぞわり、と戦慄が走る。藍色には何がある。あなたは何を映して私を見ているの。そこに浮かぶ感情は。
「君ができる、唯一の愛情表現、なんだっけ」
 深い苦悶と絶叫を堪えるような、どこか狂気を孕んだ執着。
 何故、それをあなたが。
 その感情を向けるのは、誰。
 一人しかいないだろうに私はそれを否定する。そんなことはあり得ない。断じて彼がそれを望むことなど。
「何を言ってらっしゃるのですか」
 静かに穏やかに返し、真近にあるベアードの唇をそっと撫ぜて押し返す。本能がこれ以上彼の底を見てはいけないと、警報を鳴らしていた。私は何も見ていない。いいえ、そうでなければ。
「頬を撫でるのは愛情表現の一種でしょう。メアリもよくやりますわ」
 嘘だ。
 けれどそうでもしなければ、もう一度彼の底にたどり着いてしまいそうだった。嫌な汗がじわりと背に浮かぶのを感じる。
 彼は押し返されて離れた指先を静かに眺め、一瞬何が起こったのかわからないとでもいいたげな、幼い表情を浮かべた。無垢で何も知らない子供のような眼差し。彼は、時折酷く不安定だ。酒池肉林を好む男とは思えないほど、純真無垢で何の穢れも知らない赤子のような瞳になる瞬間がある。あなたは、いったい何者なの。
 ゆっくりと彼は唇に柔らかい笑みを乗せた。同時に扉をノックする音が響く。
「失礼いたします。殿下、飲み物をお持ちいたしました」
「入って」
 タイミングの良さに救われる。けれど安堵したことを悟られないように、私は平然とベアードを見つめ続けた。底を覗き込まないよう細心の注意を払いながら。
「お話を戻してもよろしいですか」
「そうだね。と、いっても、何の話をしていたのだっけ」
「義兄様が何故ティシエ卿とのご会談を破棄されてまで、私のところに来たか、ですわ」
「それは可愛い妹に会いたかったからでは駄目なのかな」
「義兄様ったら」
 思わず呆れたように声を上げる。彼もさっきまでのことが嘘のように可笑しそうに笑った。けれど空気は確かにぎこちなくそれをウィルが感づかないわけがない。美しい私の従者は卓上にティーセットを用意しつつ、そっと私に視線を送る。その意味を悟りながらも彼の眼を見返すことはない。
「何かあったのですか」
「そうだった。それだよ。とても良いことがあったのだよ」
 そう彼は楽しそうに言い、長い指を組んで私の瞳を見つめる。さっきまでの深く澱んだ池ではなく、からりと晴れた青空を映すような瞳に淡い恐怖を抱く。くるくると表情を変えるのに、根本となる冷たさを隠そうともしない男。不意にあることに気づいた。
 私は彼のことを何も知らないのだ。
「良いこと」
「そう。聞きたいだろう。人に関することなのだがね、誰だと思う? 僕かな、君かな。それとも」
「叔母様に?」
 思わず目を見開いて彼を見返す。ベアードは目を猫のように細めてとても楽しそうに笑う。その大袈裟な様子はけれど美しい彼に酷く似合っていた。
「そうだよ。彼女はね。
 挙式するのだよ」
 一瞬何を言っているのか理解できずに、思わず口を小さくあけてしまった。けれど脳は的確に彼が言ったことを捉え、再構築を始める。つまり、それは。
 自分でも思っていなかったほど、明るく優しい声が出ていたことに私はしばらく気がつかなかった。
「叔母様がご結婚なさるのですね」
 その表情には一点の曇りもなかったと思う。事実あそこまで嬉しそうな私の顔を見たのは初めてだと、ウィルが後で教えてくれた。それほどまでに私にとってそれは吉報だったのだから、多少取り乱しても許して欲しい。
 ウィルとベアードは私の明るい声と酷く嬉しそうな顔に、驚いたように目を見張る。けれど彼らの表情が変わったのにも気づけないほど私は喜んでいた。
「それはとても良いことだわ。良かった。もうメアリは知っているのかしら」
 もう式場まで決めたのだろうか。だとしたら少しだけで良いから式場の装飾に声をかけたい。脳裏にはうら若く慈愛に満ち、幸せそうなレティリアの花嫁姿が鮮明に浮かぶ。彼女はきっと白薔薇、マルドゥブルの花束が似合うだろう。
 そこまで考え彼女の夫となる人が思い浮かばないことに気づく。
「義兄様。婿は一体どなたなのですか」
 期待に満ちた目をしていたのだろうか。彼は一瞬私の瞳に息を飲み、慌てて静かに逸らす。それにほんの少し違和感を覚えたが、それよりも幸せなその話に私は少しだけ浮き上がっていた。
「サイラス卿だよ。彼ほどすばらしい男はいないからね」
 一瞬で美しい蜂蜜色の髪をゆるく結わうレティリアと、強くくっきりとした彼女を支えるように立つ栗毛の背の高い彼を思い浮かべる。なんて素敵なのだろう。二人は寄り添いあって生きるのだと思うと、何故か胸がいっぱいになった。同時にわずかに感じる痛み。私は、決してそうはならない。
 顔を上げて、ベアードがじっと私を見つめていたことに気づく。そして自分の失態に気づき、私は自分の頬がわずかに染まっていくのを知覚した。恥ずかしい。
 勿論彼もその反応に私が何を恥ずかしがっているか、すぐに気づいたようだった。予想以上に温かい眼差しを、けれど冷たさを隠さない視線を送られる。
「君は結婚に憧れているのだね」
 今更取り繕っても無駄だ。そう思いながら私は静かに落ち着きながら、ほんの少し微笑む。笑えているのだろうか。
「そうですわ。下らない、ことかもしれませんが」
「そんなことはないだろうね。結婚することはとても幸せなことだともいうし。勿論僕の母のような間違いをしなければのことだけれど」
 にっこりと笑う彼の言葉には、実母に対する隠し切れない蔑みが溢れていた。彼は実母を嘲っている。何も考えずに生きる醜い彼女を、汚い物でも見るかのような眼差しを向けることもあった。それなのに決して彼女を厭わない。いや、彼女という存在を受け入れているかのようだった。
「間違いでは、ありません。私は義兄様がいてくれることに感謝しています」
 その言葉は真実。嘘の入り混じる私の言葉に少しの真実でも感じ取ってくれるだろうか。それでも知っておいて欲しい。真っ直ぐに彼の藍を見つめ、言葉をその底を射抜くように放つ。
「私は、義兄様と、兄様のおかげで、ここにいるのですから」
 もしも兄が健康体で何の問題もない人間ならば、父は兄以外に子を生そうとはしなかっただろう。けれど現実に生まれた子供は酷く弱く。苦渋の決断の末、義兄の母と契りを結ぶ。義兄がけれどもし生まれなければ? だとしたら、更に他の女と彼は契りを結んでいたことだろう。増えるはずの後妻はけれど義兄の母以外存在せず、王族の血は三つに分かれた。本筋が二つに、トルスが一つ。
 あなたが生まれなければ、私は存在しなかったも同然。だから私はあなたに精一杯の感謝を送るのだ。それが、どんな形であるかなど、あなたは知るはずもないのだろうけれど。
「君の言葉は、時々突き刺さるね」
 そうふっと笑いながら義兄は呟き、静かにその身をソファに沈める。どこか疲れたような仕草は酷く妖艶に映った。その姿で何人の女を孕ませたのだろう。鋭い眼差しを送らないようにしながら、けれどわずかに自分の視線に冷たさが宿るのを感じる。
「そんなつもりはございません」
「分かっているよ。君が気にすることは何もない」
 返す言葉を失わせる。優しく冷たい眼差しを真っ直ぐに受け止めながら、心中で静かに言葉は呟かれた。
 あなたは、何を望んでいるの。