第一部 に溺るる死者とに向かう生者

二章 マルドゥブルの花嫁

08

「ねえメアリ」
「はい。何でしょう、殿下」
 編みこんでいた三つ編みを丁寧に解いてくれる彼女の白い手を思い浮かべながら、けれど目線は手元の本に向け背後にいる彼女に声をかける。律儀な返答にほんの少し可笑しくなった。もう十年も一緒にいるのに、私達の立場は変わらない。侍女のあなたと皇女の私。それは決して幸せな立場ではなく、彼女には侍女しか分からない悩みがあり、私には王族しか分からない悩みがあり、それは私達の溝を否が応にも強調させる。私達は相容れない。
 それは耐え難い苦痛であると同時に、言いようのない解放でもあった。あなたには私がわからない。私にはあなたがわからない。それでいいのよ、だって私達は違うのだもの。
 分かり合うことだけが全てではない、この言葉は誰の物だったのだろう。けれど、私達の関係を表すならば、これほど正鵠を射るものは存在しない。
「知っていた? 叔母様がご結婚なさるそうよ」
 そう小さく呟く。案の定驚いたように彼女は私の髪を解く手を一瞬止めた。わずかに背後で息を呑む音を感じながら、彼女の穏やかなブラウンの瞳が大きく見開かれるのを想像する。きっと彼女は今まさにそういう顔をしているのだろう。
「初めて窺いましたわ。お相手は?」
「サイラス卿だそうよ。とても、すばらしいと思わない」
 吐息を零しそうになるのを抑えながら、けれど脳裏には鮮明に美しい二人の姿が思い浮かぶ。それは彼女にも伝わったのだろうか。ブラシをかける手を止め彼女は私の白く細い髪をそうっと撫ぜる。しばらくしてから彼女はまた私の髪にブラシをかけ初めた。
「これで、ようやっとサイラス卿の恋は実ったのですね」
 楽しそうに漏らされた言葉に笑いがこみ上げてきた。彼女もその意味を良く知っているから可笑しそうに笑い出す。私の分まで楽しそうに笑う彼女は、私にとって大切な存在なのだ。
「思えば長いものですわね。何せ彼が十の時からもうレティリア殿下をお慕いしていたのでしょう? 十八年、よく持ちましたわね」
「六歳の叔母様はそんなに美しかったのかしら」
「是非お二人の最初の邂逅を詳しく教えていただきたいですわ。それにしてもほんの少し意外でした」
「何が」
「レティリア殿下が二十四になるまでご結婚なさらなかったこと。殿下はいろんな殿方からのご求愛を受けておりましたから、その中から相応しい方をお選びするものだと思っておりました」
 一瞬言葉に詰まる。けれど瞬時に切り替えて静かに彼女に言葉を返しながら、手の中の本のページを戯れにめくる。勿論読んではいなかった。
「他の侍女が言っていたのだけれど、何でも叔母様もサイラス卿を好いていたというわ」
 十八年間、ずっと愛していると云われ続けその気にならない女性はいるのだろうか。そう思いながら彼女の反応を待つ。
「そうだったのですか。とても、美しいご夫妻になられるのが目に浮かびますわ。やはり式を挙げるのは城の裏のマルドゥブルの教会でしょうか」
「そうでなければ嫌。彼女ほど白薔薇の似合う女性はいないでしょう」
 女神マルフルからとられたマルドゥブルという異名を持つ白薔薇。美しく聡明で気品に溢れ、けれど忘れられない棘を持つ女神を冠する美しい薔薇。白薔薇のように可憐で情熱に満ちた少女のような、けれどマルフルのように妖艶で艶やかに笑う女神のような、そんなレティリア。鮮烈なまでに美しく強い稲妻のような存在。彼女の兄であり、私の父とは根本のみが同じで全てはまるで線対称のように異なった。
 時折思うのだが、何故彼女は父を殺さなかったのだろう。それは子供のように無邪気でけれど残酷な問いだと思う。それでも私には理解できない。
彼女は兄よりも理論的で頭脳も明晰だ。それに負けん気も強く押しも強く我も強く。負けることを嫌う不遜な彼女だけれど、兄である父に対しては酷く従順だったことをかすかながら覚えている。そんなあの人ならば、父を殺すのは赤子の首を絞めるよりも容易いことだっただろうに。
 そう自分の父を卑下しながらも私はそれ以上知ることを良しとはしなかった。彼らには彼らだけの物語があったのだろう。私には触れられない暗い炎のような物語が。
「レティリア殿下はどのようなドレスをお召しになるのでしょうね。流行に乗って白以外を選ぶのでしょうか」
「それはないと思うわ。叔母様は自分に何が似合うのかをよくご存知だもの」
「そうですわね。ドレスのデザインを一足先に見せていただきたいですわ」
「きっと彼女は見せてくれないわ。私は叔母様に嫌われているもの」
 そうわずかに拗ねるような声を出しながら、本をそっとサイドテーブルに載せ彼女に促されながら立つ。渡されたシルクの寝着に腕を通し入り込んだ髪を払い、不意にこの髪が鮮血にまみれて見えて、その残像を振り払う。そういえば、と、昨年の自分の誕生日を境に自分が戦場へと赴くようになったことを思い出した。
 イチェリナ皇国では十五歳のことを「シェルマ」という。そのまま古代の大陸国の時に使われていた言語で、小さき大人という意味だ。そして成人である十九歳のことを「シェマ」と呼び、シェルマからシェマの間の四年間のことを「シェルマントン」と言った。
 小さき大人であるシェルマの年齢からは、戦場に赴くことが許される。人と戦うこと、それは人を殺すことにもつながり、けれどそれが正式に許されるのだ。二年前、兄が成人を迎え即位したが、彼はその身体の脆弱ゆえに、戦場に向かうことをドクターから止められた。それはつまり戦場において自らの王としての力を示せないことになり、他国だけでなく民からの信頼を失うことにもつながる。だから私は彼の代わりになるべく十の時から稽古し、そしてシェルマとなった年にさまざまな戦場に向かった。昨年だけで起きた小さな諍いを含め、十は超えるだろう。イチェリナ王家に伝わる天から与えられし鎧セストを纏い、名も無き白の刀を携えて、私は兄の代理人として血にまみれて戦った。
 それはけれど皇女としては酷く滑稽に映ったことだろう。兄のために白銀の刀身を閃かせ、美しい白の鎧を赤に染め上げた私は誰に言われるまでもなく滑稽で無様だった。だが、それでも私のその行いを認める者はいる。
 例えば、そう。
 叔母、レティリア。
 彼女は私が彼女の愛する白を赤に染めることを、酷く喜んだ。兄の代わりに成りえ、尚且つ全ての戦いを制した私を彼女はその可憐な笑顔で褒め称える。
「あなたのその行いは賞賛に値するのよ、シャルロット。いずれこの国の頂点に立つあなたがそうすることによって、民はあなたを敬愛しあなたを崇拝し、そしてあなたを恐れる。
 あなたは純白で、だけれど赤に塗れ得る。あなたは、美しいわ」
 いつか彼女の告げたその言葉がふと頭をかすめた。その恍惚とした麗しい瞳。私の赤を邪気なく許し、あまつさえそれをより望む存在。そして何より白を愛する鮮烈な彼女。
 そういう彼女はけれど私のことを嫌っている。国の頂点に立つのはあなた、そう言いながら彼女はそれでも私を憎んでいるようだった。そう、あの愚鈍な父よりも強い彼女が次の王になるのは、当たり前のことのようだった。だけれど次代、つまり先代の王となったのは、その愚鈍な男の息子。そして次はその妹。彼女だけが許された地位は、けれど彼女を呼んではいなかった。それに彼女が絶望しどれほど打ちのめされたかなど、想像するまでもない。
 強く鮮烈な彼女と「氷の姫」。
 私達は、けれど相容れない生き物だった。
「私は、彼女が嫌いではないのに」