第三部 に落ちた彼と六花を願う

八章 ジゼルの転落

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「それでもあなたひとりがイチェリナ王家の生み出した罪を、背負う必要がありますか? あなたは既に狂おしいほど罪に苛まれているのに、どうしてあなたが私の元に来るのです」
 あなたが来なければよかったのだと、彼女の言葉は言外に詰っているようだった。はっと意識を引き戻されてジルを見やると、青い双眸に雫が滲んでいる。胸を、詰まされた。
 どうして、彼女が泣くのだろう。
 イチェリナ王家のせいで、最も辛い思いをしてきたといっても過言ではないはずの少女なのに。イエラという英雄のせいで、何百年にも及ぶ生命を生かされ続け、奪われ続けてきたというのに。
 なのに、どうして彼女が泣くのだろう。泣いてくれるのだろう。
 手の中にある手紙にほとり、と小さな重みが加わった。零れてしまった涙を拭い取り、もう一度手紙を差し出す。
「どうか、許してください、シルフィー。私ならいくら憎んでくださっても構いません。あなたには本来イチェリナを呪うだけの理由があります。それでも、どうか、どうか許してください」
「……ずるいわ」
 か細い声が落ちてくる。手紙を差し出したままもはや顔を上げていることもできずに、はたはたと零れていく水滴を見つめていた。ずっと床に膝を付けていたから足が痺れて痛い。そしてそれ以上に、これほどまでにしても伝えきれない感情が、胸の奥で暴れ狂っていた。すべては言葉にならぬまま、沈下して隠れていく。
 かさりと、手紙が揺れた。
「あなたの家族は最低ですね、シャルロット。すべてをすべて、あなたに押し付けて狂ったように散っていく。厄を孕んだお父様も、短命ゆえに慕われたお兄様も、利用し尽くされた義兄様も。
 あなたは、かわいそう」
 指から今度こそ手紙が抜き取られる。顔を拭いもせずに何かの予感に惹かれるように顔を上げると、ジルが手紙の封を切ったところだった。中の紙を出して、震える指先で押し開く。文字を追う少女の目が、大きく揺れた。
 そして、勢いよく手紙を引き裂いた。
「ジル!?」
「あなたたちは勝手だわ!! もうどこかに行って! 二度と私の前に現れないで!」
 ティフィト伯が少女の腕を掴もうとするが、彼女の振り下ろした手は私の頬で弾ける。ぴしゃりと響いた音を耳の奥で聞きながら、少女の顔を愚かしいほど見上げる。食い入るように見つめ、血の味のにじむ唇を開いた。
「いいえ。いいえ、現れます。あなたのための島を取り戻してから。きっと」
 きっぱりとはっきりと、ひとつひとつの言葉を吐き出す。海の色だと称されるこの瞳は、いったい彼女にどのように見えているのだろうか。ジルは島、という単語を聞いた瞬間、かっと目を見開く。けぶるような銀糸が煌めいた。
「なぜ……?」
「伯からあなたの容態は聞かされています。あなたが正常に息を吸えるのは、この世界の中で唯一あの島だけ」
 どうか、と頭を垂れる。今度こそ祈りを捧げる古語を混ぜ込めて、もう一度希う。
「どうか、あと少しだけ、お待ちください。どれほど生きることに飽こうとも、どうかお辞めにならないでください。あなたにあの島をお返しして、今度こそ私もイチェリナも、永久にあなたの前には姿を見せないと誓いましょう。だから、どうか、許してください」
 ティフィト伯が何も言えずに視線を逸らしたことに気が付いていた。彼はきっと彼女の決断を見ていられない。彼女のための煉獄を作り替えたユペールという男とは違い、ただ父のように慈しんできた伯爵には、その決断を受け入れることがきっと苦しい。
 ふるりと少女が幽かに震えたことが、感じられた。ふと少女の生まれた世界は、古語を利用していたのだと当たり前のことを思い出す。上から降ってきた声は、少女のものとは思えないほど老成した響きだった。
「憎んでいいのなら、許しましょう」
 それは、ととっさに顔を上げると、ジルの目がまっすぐに私の目を射抜いた。貫かれるような高潔さに、唇がわななく。
 死ぬことが許されなかった、赤子。
「憎む感情くらい、残していたって、構わないでしょう? イチェリナの王よ」
「私は、王では」
 ジルという少女の唇が吊り上る。薄い唇は引きつれて、そのまま裂けてしまいそうなほどだ。
「あなたひとりで許されると思っているあたり、あなたたちイチェリナ王家は傲慢なのよ。それでもあなたは私を救おうとした。すべての王が利用することしか考えていなかったというのに、あなたは、あなただけは、私を救おうとした」
「違います、私もですが、陛下も」
「馬鹿を言わないで」
 ぴしゃりとはねのけるような鋭い音が耳を打つ。先ほどから古語を利用しているからだろう、ティフィト伯は早すぎる会話の内容がわからないようだった。ただ、娘のように大切にしていた少女が、氷のように怒りを抱いているということしか。
「馬鹿を言わないで、シャルロット・フィオラ・イチェリナ。私はあなたが女王だから、あなたを許すといっているのよ。イチェリナ王家を許すことは生涯、きっと、できやしない。あなたを使って私たちを切り捨てようとする今の陛下も、私はきっと許せない。けれど、あなたを許すことならできる」
 はっきりとした言葉の中に映るものは、悲哀だ。頑固なほど彼女の瞳を凝視し続けていると、そっと白い帳が降ろされる。
「イチェリナ王家に仇名すことも、イチェリナ皇国を滅亡させることも、できるけれど、やりません。その代わりに、いつまでも憎み続ける。私の胸の内にいつまでも、いつまでも、この感情を飼い殺しましょう。あなたがここに来たから、私はそういえる。今のイチェリナと、私はもう、関わらない」
 手を取られた。そっとひっぱりあげられるようにして、初めて少女と目線が合致する。にこりとジルは笑うと、美しい銀糸の髪をくくっていたリボンをほどき、首を振った。ふわりとまるで魔法のように、少女の髪が色づいていく。むせかえるほどの力が立ち上って、頭がくらくらとした。
「まだ私はここにいます。お父さまにも、ロペール様にも、お別れを告げなければいけないから」
「ジル……」
 お父さまという言葉に、ティフィト伯の手が震えた。古語を操りながら、少女は微笑む。すべてから解き放たれた顔をして、笑った。
「もういいんでしょう? 私は、もう、自由よ」

 それから数か月後、ティフィト伯領から、ふたりの人影が去っていくのを、辺境護衛士が見たという。追いかけることもできなかったとも。
 長い髪を翻す少女の手を取って、決意に満ちた伯爵家のひとり息子が、去っていったから。
 彼らがいなくなってから数か月後、ティフィト伯爵は爵位を返上し、ひっそりと隠居したという。もはやだれもいなくなってしまった、かつての魔法の領地は、毎年ふたりが去っていった秋、目を見張るような花を咲かせて散っていく。
 誰かが、シルフィーと名付けた花は、今日も咲く。
 失われた女王の名前と共に。