第三部 に落ちた彼と六花を願う

八章 ジゼルの転落

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「なぜ、あなたは許せるのです」
 絞り出した声は掠れて聞こえた。問い返す必要もないほど言葉の意味は理解している。だからシャルロットは微笑んだ。うっかりすると涙さえ滲んでしまいそうな目を瞬かせて、笑った。
「私が許すのではありません。私は私の罪を償うために、ここにいます。祖先の罪すべてを私が贖っているのではありません。陛下もまた、贖罪のために選びました」
「何を。まさかジゼルになることを許したわけではないでしょう」
 視線を逸らしてしまいたい。そう呻くように思いながら、少女の瞳から逃れることはできない。どこまで話していいのか、とつぶやいて、応えた。
「陛下がジゼルになられたのは、彼女の実母の狂気によるものであって、あの事件はあくまで偶発的なものでした。けれど陛下がジゼルになられたと知ったそのとき、我が父は、異母妹を心配するよりも先に、とあることに気が付いたのです。あのとき、あなたは気づかれたのではないでしょうか。狂王そのものの呪いを抱かされたあなたは」
 ジルの目が揺れ、視線が逸らされる。震え俯く瞼の下の青い双眸は、悲しみを帯びていた。
「ジゼルの、共鳴ですね……」
「そんな馬鹿な!」
 響いた声にシャルロットがジルの背後に立つティフィト伯を見やると、彼は望まぬ言葉を否定したいがために荒げた声を悔やんでいた。視線が噛みあった瞬間、伯が答えに辿り着いたことを知る。
「ジゼル同士が共鳴し合うのは、ごく稀な出来事だと聞き及んでいました。過去の記録では、両手で数え切れるほどだと……」
「ええ。ティフィト伯、近年でジゼルが一堂に会した日をご存じですか」
「いえ、寡聞にして……」
 ジルもまた背後の家族と同じようにシャルロットの瞳を見つめていた。その目を受けながら、とある日付を口にする。
「二世代前、王家から偶発的に生まれ落ちたジゼルがいました。彼女はジゼルの実験体となるべく塔に生涯監禁されました。その実験の中で、ジゼルの能力を探るために死刑囚を野放しにした記録が残されています。当時の死刑囚は八名。全員ジゼルによって連れ戻され、彼女の手によって抹殺されました、ただひとりを除いて。彼が最後脱獄した日は、ジゼルが死んだ日だった」
 ふたりの視線が鋭く剣呑なものに変わっていくことには気が付いていたが、返す言葉は存在しない。シャルロットの唇には皮肉めいた笑みを浮かんだだけだった。
「その日、男がどこに逃げ出したのかはっきりとはしませんでしたが、中途まで追跡していた書類によると、フィシュ国の手前で消息を絶ったそうです。異様な目つきの人間が集まっていて、男を逃したと。追跡者はほうぼうの体で逃げ延びたようですが、まずこの追跡者が生き残っている時点でおかしいのです。血に狂うジゼルが単純な人間を取り逃すはずはありません。……それから数十年が経った現在、ジゼルの数は増え続けています」
「ジゼルが子を成すということを、初めて知りました……」
 ティフィト伯の愕然とした声音に唇を噛みしめ、ゆっくりと首を横に振る。シャルロットも知らなかった。強引に生み出されたジゼル、ジゼルにさせられたジゼルである彼女の苦悩しか、見ようともしていなかった。それ以外にいつでもジゼルはいたのに。ベアードのすぐ隣に、はっきりといたはずなのに。
「ジゼルはあなたがたもご存じのとおり、彼の魔力を、魔力の喪われた人間にすら蘇らせることができます。父は、曽祖父の世代に起きたその事件を知っていました。王家の中に純粋なジゼルが生み出されたとき、一堂に会するジゼルの謎の習性も。純粋ではなく後天的ですがジゼルの力を得たため、わが叔母レティリアもまた、ジゼルの王の資格が与えられたのです。その日の晩、陛下の手術が行われる王城を見つめ続ける集団がいたことも、記録されていました」
「あなたはそれをどこで見てきたのですか? もう、王ではないのに」
 ジルの鋭い言葉に一瞬言葉を詰まらせ、微笑む。そうですね、と頷き足元に転がったままの手紙を拾い上げた。
「私はもう王ではありません。罪人です。しかし罪を償うためにジゼルの討伐を命ぜられました。ジゼルに関わる可能性のあるすべての情報は、手に入れることを許されています。彼らが今どこにいて何をしているのか、どうすれば殲滅させることができるのか。
 話が逸れてしまいましたね、申し訳ありません」
 いえ、とつぶやくジルの声がわずかに震えていたような気がした。彼女をそっと仰ぎ見ると、きっとした目つきで睨まれる。彼女が今何を考えたのか、想像してしまったことを胸の奥底に閉じ込めた。
「父は、レティリアがジゼルの王になり得ることを知りました。そしてまた、他にジゼルの王足る者が現れるだろうことも。純血のジゼルの血は今もどこかで流れ続けています。当時のトルスがかの国におけるジゼルの奇行に気づくのも、そう遠くはない話でした。
 トルスから、ジゼルを排斥することは不可能です。他国の者の介入を許すはずもありません。そも、かの国自体はジゼルの存在を黙認し、民間の組織に命じ、ジゼルと思しき存在はとらえられ、多くはジゼルの習性通り短命で命を散らしていきました。けれどあの国にジゼルはいます。囚われながら王の存在を待ち望んでおり、レティリアにジゼルの力が宿ったそのとき、脱獄しました」
 こほ、と小さく咳き込む。喉が引きつるような感覚を覚えていた
。 「即位前から父によって放たれていた密偵たちは、ジゼルたちの逃亡を目の当たりにすることができました。そして生き延びることも。ジゼルはまっすぐにイチェリナの王城へ向かい、そして今なお根城とされているロートルド山脈の麓へと逃れていったそうです。その後父はシエルタへの援護を大義名分として、ロートルド山脈に潜むジゼルを着実に減らしていきました。彼は、異母妹を利用することを当時既に視野に入れていたのです」
「ジゼルの王にさせるために、ですか」
 ジルの言葉にひとつ簡潔に頷いた。シャルロットが顔を上げるとやはり苦しそうに唇を引き結び、真正面から眼差しを受けることを厭うように、彼女は視線を伏せていた。
「ええ。ジゼルの王として、ジゼルを滅ぼすために。
 父は異母妹に尋ねたそうです。すべてを犠牲にしてジゼルの王ひいては国の王になるか、王を諦めジゼルとして発狂に怯えながら幽閉されるか、どちらがいいかと。重ねてこうもいいました。王になることを選ぶなら、これから先起こる血生臭いすべての戦いは、自分の決断のせいだと。お前がジゼルとして生涯を終えるなら、起こり得ない戦があるということを自覚しろと。それでもなお、生きたいかと」
 ぎり、と少女の指が軋んだ音を立てた。ジルの背後に立つティフィト伯が眉をひそめ、そっと彼女の肩に両手を乗せる。わずかに震えていた少女は伯の無言の言葉に頷き、ソファにその身を沈めた。それを見守りながら手の中にある手紙をぴしりと伸ばす。
「陛下は生きることを選びました。彼女は王になりたかった。生き延びて王として見たい景色があったのです。彼女が欲を優先させたがために、いくつもの無為な血が流された」
 あれほど戦が起きるなど、本来ありえぬことだった。しかも戦とは言い表せない小さな紛争は、すべてがすべて、自らの王を求め仲間を増やそうとするジゼルたちによるものだったからだ。
 イチェリナ王になるのなら、人間としての尊厳が残される。しかしジゼルの王になるのならば、それはもはや人ではない。
 レティリアはそれを知っていた。人外になることを、化け物になることを、何よりも恐れた。
「彼女はその選択を決して悔やみはしません。それ以外の選択肢を与えてくれなかった父のことを憎みはすれども、悔やむことはできませんでした。彼女のために死んでいった者たちのためにも。
 ……私に、彼女を許さないなどということが、できると思いますか?」
 理不尽なほど残酷な選択肢しか提示されなかった。まだ幼い少女にそれ以外の選択肢があるかもしれないなどと、どうして思うことができようか。少なくともレティリアには考えられなかった。絶大なる王を、絶大的なほど静かに燃え尽きようとする自身の兄を、この上なく愛し、慕っていたから。
「……時代が時代なら、アルフォンス二世と陛下は、亡国の貴子作りに励まされていたのかもしれなかったのですね」
 ぽつりと響いた聞きなれぬ言葉にティフィト伯を窺い、彼が慌てたようにジルの肩を叩く。しかし伯に言葉を発させることすら許さず、少女は目をすぼめてシャルロットを見つめていた。過去の女王を、憐れむように見つめていた。
「ええ、当時のことは覚えています。アルフォンス二世はなかなか奥様を娶らず、幼いレティリア陛下の世話ばかり焼いていたことを。もしもふたりの歳があれほど離れていらっしゃらなかったら、きっと亡国の貴子は産まれていたのでしょう。生まれ落ちて、イチェリナは沈んでいたことでしょう」
 言葉はどこか予言めいて落ちていく。鐘のように麗しい響きを持っているというのに、そこに混じる音は明らかな不協和音だった。いつか訪れる災厄を見つめる声。ジルに予言の力はないはずだというのに、シャルロットは自身がアルフォンス二世としてそこにいる錯覚に陥った。過去からの呼びかけに、父はきっと応えなかったのだ。