第三部 に落ちた彼と六花を願う

八章 ジゼルの転落

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 少年は少女にキスをした。
 文に表してみるとただそれだけのことだというのに、シャルロットはわずかに動揺していた。今は亡き伯爵夫人に似たのだろう素直な黒髪と、鮮やかな青い瞳の少年は、祈るように口づけた。銀色の髪が零れ落ちる哀れな少女にキスをして、言葉を口にはしなかった。
 彼女があまりにも黙っていることが気になったのだろう、ジルと呼ばれる少女は隣に立って歩きながら視線をさまよわせていた。言葉を口に出そうとして幾度も失敗したように呼吸する。その合間を縫って尋ねた。
「慕われているのですね」
 少女は目を見開きいえ、と即座に答え顔を伏せた。思い出すようなことでもあったのだろうか、顔色は良くはない。シャルロットが馬車からまろび出たときからそうだったことを知らぬまま、前女王は穏やかにいった。
「私はあなたを殺すつもりはありません」
 え、と間の抜けた声が少女の唇から零れ落ち、そして訝しげな視線がシャルロットへと向けられる。視線を返すことはしないまま、シャルロットは静かな声でいう。
「王家の切り札であり続けていてくれたあなたを、無暗に殺させはしません」
「ですが、私の役目は……」
 か細い声に首を振り、たどり着いた部屋の前で足を止めた。振り向いた先で困惑と怯えの混ざった悲しげな瞳がシャルロットを見上げていた。容姿だけはシェルマの頃の自分のようだ、そうシャルロットは思う。何百年も生き続けてきた人間を前にして思うことがよりによってこれか、と自分自身に呆れた。彼女は自分とは違う。そも人間ですらないというのに。
「あなたが女王イエラとどういった約束をしたのかについて、真実を知りません。あなたに与えられた役目は、けれどあなたが選んだものではない」
 それは、と震える唇が囁いた。そうだシャルロットが壊そうとしているものは、彼女が縋りつく信念だ。少年から少女を奪うだけではなく、少女から少女のすべてを壊そうとしている。わかっていることだった、けれどそれでもいつまでも彼女を切り札として扱うわけにはいかない。もう、あの国に切り札など必要ない。
 唇を引き結ぶ。話は中でしましょうと呟いて扉を開け、少女を促し室内へと入る。ソファにゆっくりと腰かけていたティフィト伯は立ち上がり、ジルフィードを迎え入れた。少女へと伸ばす手つきは優しく労わりがこもっており、しかしその感情を受け取ることすら申し訳ないといわんばかりに、少女は視線を逸らしただけだった。ティフィト伯は穏やかに眉を垂らして微笑み、ジルフィードをソファに座らせる。所在無さげにティフィト伯を見上げ、彼の大きな手に肩を抱かれてようやく少女はシャルロットを振り返った。
 心が軋む。約束のためにすべてを取り戻した心は、ここのところずっと軋み、苦しみ、泣いてばかりだ。感情を思い出した心は、時としてシャルロットの理性を軽く超えていく。
「シルフィー。いいえ、ジル。まずは謝らせてください」
「陛下……? お顔をあげてください」
 ジル、と伯が少女をいさめる。じっとこちらを見つめる視線を感じながら、しゃがみこみ跪く。頭を垂れて祈るように解放の声を囁いた。
「許してください。わが一族のおぞましい罪を、あなたひとりに背負わせてしまったことを。何年もあなたを解放してやれなかった、無力な私たちを。どうか、許してください」
 息を飲む声が聞こえた。誰の者だろう。扉の外に聞き耳を立てているかもしれないあの少年のものだろうか。それとも少女の、伯の。
 返答がないことをいいことに、顔を上げる。少女の目をまっすぐに射抜き、何度でも請う。
「イチェリナ王家の名を持たぬ今の私がいっても、信用していただけないかもしれません。それでも信じていただきたいのです。現世の女王に切り札は必要ありません。彼女自身が、すでに狂王の呪いをその身に甘んじ、死するときを知っています」
「馬鹿な! なぜ女王が!!」
 ダンッ、と強い音と共に少女はソファから立ち上がる。伯もまた驚いていたのだろう、少女を止めることもできずにシャルロットを驚愕の眼で見つめていた。こくりと頷き、ジルの手を請う。彼女はためらい、かすかに首を横に振った。
「教えてください陛下。どうして女王が呪われたのですか。現世の女王は、レティリア陛下は生まれたとき通常の娘であったと聞き及んでいます。それは、偽りだったのですか」
「いいえ、陛下は厄も持たぬ清らかな娘でした。実母にジゼルの眼を植え付けられる、その日までは」
 信じがたい言葉に耳をふさぎたいと言いたげな眼差しの男から視線を逸らし、少女に向けると、彼女は顔を覆って、ああ、と囁いた。吐息のような音だった。
「陛下は、今一度大陸に呼びかけるおつもりのようです。反旗を翻す気さえ失せるほど、還付なきほど、かの国を破滅させるために。そしてそれは実質、切り札と呼んで囲い、搾取したあなたがたを、解放できうる瞬間でした。私は陛下から贖罪としてジゼルを壊滅させることを命じられ、秘密裏に、切り札たちへの解放を命じられました。これを、読んでください、シルフィー」
 腰にぶら下げたままの小さなポシェットから、しっかりと蜜蝋で閉じられた手紙を差し出す。指の先で少女が戸惑っていることには気が付いていた。だからこそシャルロットは心の痛みで歪んだ顔を上げて少女の名を呼んだ。
「シルフィー。あなたが解放されることを望んでいるのは、ユージン少年だけではなかったはずでしょう。お願いです、シルフィー。読んでください。あなたの愛したロペール様のためにも」
 手紙がさらわれる。怒りで赤くなった強い目をこちらに向け、少女はきっと唇を引き結び、手紙で顔を覆ってしまった。ぎちり、と掴みあげる力の強さを示すかのように、手紙が軋む。破かれてしまう気さえするほど、少女は怒っていた。ティフィト伯は苦い顔で同じように少女を見つめる。微かに呻いたあと、ジルは手紙をくしゃりと握りつぶした。ジル、とたしなめの声をかけるティフィト伯を制し、ありがとうと囁く。
「いつでも構いません。読んでください。あなたがこの手紙を開き、読み終えた瞬間、あなたはイチェリナの切り札ではなくなる。それでも、呪いを解くことはできません」
「知っています、私の呪いは解けない、一生いえ一生涯、いいえ! 一生すら得られない、私はいついつまでも、永久に永遠に! それも全部、あなたたち王家のせいじゃない!!」
 パシッと軽い音とともに、顔面に手紙を投げつけられる。視界の端で顔を青ざめさせつつも口出ししない伯を認識しながら、今にも逃げ出しそうな少女の両手を取った。
「ええ、私たちのせいです。わが祖先イエラのせい。至らなかった私たちのせいです。それでもどうか、どうか許してください。私を憎んでください。すべての罪はこのシャルロットにあると、私を憎んでください。お願いです、どうか、どうか」
 ふと、少女の瞳が揺れた。眉根がひそめられたと思ったその瞬間、指の間から華奢な手がすり抜け、ピシャリと厳しい音が頬で炸裂する。大きな痛みではないが、心が切り裂かれたように血を吐き出していた。シャルロットの表情が変わったことに気が付いたのだろう、ジルは唇を、表情を歪めて囁く。
「あなたが恐れているのは、陛下への呪いですね……? 私が陛下を厭い、疎み、憎むことを恐れているのですね。現世の陛下だから。現世の、唯一の女王だから」
 聡い少女だ、と思う。少女という甘い言葉で言い表せるような存在ではないのだと知りながらも、思ってしまう。
 ジルは、唇にわずかな苦笑を乗せて、瞳に嘲笑を浮かべてシャルロットを見つめていた。微かに漏れる吐息すらも、怒りと嘲りが混じっているような気がして、切願するかのように見つめ返す。
 ふと、視線が揺らいだ。