第三部 に落ちた彼と六花を願う

八章 ジゼルの転落

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 ティフィトの館には使用人が恐ろしいほど少ない。料理人の夫婦と掃除婦が四名、父とユージン、それから父の従者という名前を割り当てられたジルと、そして魔術の研究に明け暮れる研究員十数名が暮らしている。ときおり賓客が招かれることもあったが、それはごく少数の魔導師か、魔術研究に融資する奇特な貴族だけだ。いや、一度だけ今回の前女王のように不可解な訪れ方をした者がいた、とユージンは思い出す。十年も前のことだろうか。
 今となんら姿の変わらないジルに遊んでもらっているときだった。当時も夕暮れだったように思う。母のいないユージンを彼は兄のように姉のようにかわいがってくれた。三年も経てば容姿を変えることが義務づけられているジルは、そのときも今と同じように少年の姿をしていた。ユージンとそっくりな黒い短髪に青の瞳だった。
 館は広くそして閑散としているため、外の音が響きやすい。だからこそユージンは外から響いてくる馬車の音に気が付いたのだった。ジルもまた訪問の旨を聞いていない時刻と日付に眉を顰め、ユージンの手を引いて玄関へと向かった。あまり会話をしなかったのだろう、ユージンはジルが何かをいっていたのかもわからない。ただユージンの手を握る細い華奢な指は、ひどく冷たかったことを覚えている。
 玄関ホールにふたりが着くと同時に、扉が開け放たれてひとりの男が入ってきた。堂々たる風格と威圧するようなまなざしに、ユージンもジルも一瞬動きを止めてしまった。彼らはそのときまで、屈強な男性というものを見たことがなかったからでもあるし、彼の目が氷のような色をしながら深い底で燃えているように見えたからでもあった。
 ティフィト伯はいるのか、と男はジルに尋ねた。ジルは少し咳き込んでからいえ、とか細く囁いた。男はむっつりと黙り込んだあと、もう一度ジルに視線をくれた。そうして近づいてきた男に、ユージンはわけもわからぬままジルの前に立っていた。とっさの出来事で自分でもどうしてこうしたのかがわからなかったが、ふと思ったのだ。
 ジルを連れていかれる、と。
 男はおや、といわんばかりにユージンに目をやり、それからジルを見て一言問うた。
 生きることに、飽きぬか。
 まだ五つでジルという存在の特異性を知らなかったユージンには、これっぽっちも理解できない問いかけだった。今思えば、それはジルを傷つけるにはたやすい言葉であって、だからユージンはあの男を嫌っていた。ジルを仰ぎ見て、目を覆い隠されてしまうまでの数瞬、彼の顔に浮かんだ表情を忘れることはない。
 飽きる暇など、ございませんので。
 ジルは掠れた声でそういった。掠れていたというよりは、震えていたのかもしれない。ユージンの目を覆う指が震えていた。
 そのあとようやく父が研究室から訪れて、驚愕しながらも書斎へと案内していた。ジルを心配そうに見やってから。ジルは何もいいはしなかったけれど、ユージンを料理人の夫婦に預けるといなくなってしまった。男が帰ってから晩餐になるまで、彼はどこにもいなかった。
 あれから十年が経ってユージンは、ジルの存在について父から学んだ。何度か行われた彼の実験も見学することを促された。王家が彼をどう扱うつもりでティフィト伯に何百年もの間預けていたのかも、理解した。
 彼と呼んではいても、少女だということも、理解した。
 だから、ユージンは王家を嫌う。あの男を、のちに彼こそが当時の国王アルフォンス二世であることを知ってもなお、憎んだ。
「ジル」
 ぽつりと名前を呼べば、父の従者であるところの彼女は振り返った。いつもよりもずっと白い顔には、苦痛があって、額の中央には白い布が巻かれていた。
「はい」
「痛いのか」
「少し、痛みます」
 手持無沙汰なのだろう、父に渡されていた書物を棚の中にしまっていく。古いそれはすべて彼女自身の実験の記録だ。ジルひとりの実験の成果で、イチェリナ皇国は繁栄したといっても過言ではない。彼女の魔力はあらゆる魔力を持つものよりも純粋でいて、そして歪んでいる。
 ジルが何年の時を生きているのかを、ユージンは知らない。何度も死に目に遭いながらそれでも彼女は生き続けていることしか、彼にはわからない。ただ、ジルがユージンの曽祖父である男を慕っていたことは、知っていた。ユージンが幼いころから、彼女はよく彼の話をしてくれたからだった。
 曽祖父が亡くなったのは、ユージンが生まれる二年前の寒い冬の日だったという。
「シルフィー」
 口から滑り落ちた名前に、本棚と向き合っていた従者の肩がぴくりと跳ねあがった。もう一度ゆっくりと振り返りながら、彼女は小さく苦笑する。
「ユージン、驚きますからあまりそちらの名では呼ばないでいただけませんか」
「逃げよう」
 座り込んだままユージンはそう口にした。いつもずっと胸の中に抱いていた思いだった。ぱちくりと開いた瞳の底には、けれど穏やかな諦めの色しか映ってはいない。それを象徴するかのように、ジルはゆったりと唇に笑みを載せて瞼を閉じた。
「ユージン、いったでしょう。私はあなたがたティフィト伯爵家のものであって、私自身のものではありません。それにあの方との約束のためにも、私は逃げるつもりなんてありませんよ」
「お前はそれで何を得られる」
「あの方との約束を遂げられることへの喜びを」
 少女の柔らかな眼差しを受けて、少年は泣きたくなる。いつまでも彼女の心がだれのものかを知らされているようで、伝えたいすべてを伝えさせてくれない冷たさに、いつも突き放されるのはユージンだった。ジルは、シルフィー・ド・ディ・エンダという伝説の少女は、微笑むばかりで手を差し伸べはしない。彼女の心は常に死者のためにある。
 ふたりきりの部屋の中、明かりは唯一窓の間から零れ落ちる細い糸のような橙色だけだった。優しくはない瞳に一本だけ映る琥珀の線を見つめながら、ユージンは近づいてくる足音を聞く。ああ、来てしまうとわかっているのに、どうして俺には止められないんだ。
 コツコツと足音は響いてやってきて、扉の前で音は止まる。ジルは書物を本棚にそっと立てかけて、ゆっくりと瞼を閉じた。柔らかく微笑む彼女は、もう諦めてしまったのだろうか。諦めることが、できるのだろうか。
 生きることに、飽きないか。
 口の中でその言葉を呟きながらユージンは立ち上がった。気づいてすらいないのかもしれない少女の前まで足を運び、扉が開く音を聞きながらその柔らかそうな唇に口づけた。
 ジルは瞼を跳ねさせるようにして開き、驚愕に目を見開きながら一歩後ずさった。ほのかに赤らんだかもしれない頬は、ただ単に夕陽が当たっただけなのかもしれない。ユージンはけれどそれでもいいと思った。ただその場に居合わせた女に、王家の女に、見せつけてやりたかっただけだった。子どものような独占欲でも、何でもよかった。
 扉を開けて立っていた白髪の女は、海に刃物を投げつけられたかのように痛ましい青さで少年たちを見つめていた。ユージンの視線に気づいて、一度視線をどこかへ逃がしたあと、また冷たい氷のような表情で、ジルを呼んだ。
「シルフィー、来て頂戴」
 どうか行かないでと願いながら、少年は少女が歩いていくのを見つめていた。