第三部 に落ちた彼と六花を願う

八章 ジゼルの転落

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 ティフィトという、王都からちょうど南西にある町に、ひとつの襤褸馬車が夕暮れひっそりと人目を忍ぶようにしてたどり着いた。もう年老いた馬に鞭をくれる、目深にまでフードをかぶった人物の手はかさついて震えていた。なだらかな丘陵をゆっくりと登り、領主の館が見えてきたころになって、小さなその馬車は動きを止める。民家が田園の中に点在する景色の中、それはぽっかりとした穴のように見えることだろう。
 がたつく扉が開かれて、馭者と同じく性別のわからない人影が転がり落ちるようにして現れた。黒衣のマントが不自然にはためいて、人影が帯剣していることを告げる。手には年季の入った申し訳程度の大きさしかないトランクがあり、まるで髪を隠すかのように頭と首を群青のスカーフが覆う。もしもスカーフの中を覗き見たなら、そこにひっそりとあるのは海を宿した瞳であるときっとわかったことだろう。
 背丈はそれほど高くはない。そこだけ見てしまえば女性にも見えるが、帯剣し慣れている様子であることを鑑みればどちらともいえない。イチェリナ皇国では女性兵士は数こそ少ないものの別段珍しい姿ではないからだった。彼――または彼女――は、馭者と少しだけ話をすると何かを手に持たせ、トランクを持ったまま領主の館へと歩き出した。
 そしてそれを見ていた少年が一人。鮮やかな銀色の長い髪の間から、聡明さを窺わせる瞳が大きく見開かれていた。いくつもの書物を持つ手が震え、唇がわなわなとふるえていた。もしも彼の親友であり彼の仕える主人の息子がここにいたならば、その顔色の悪さを心配し彼を抱き上げて館へと走ったことだろう。けれど彼は一人でそこにおり、そしてもつれる足を踏み出して転び、本が土に投げ出される。髪で器用に隠された額には、奇妙な横一文字の線が走っていた。
「どうして、ここに」
 ぽつりとつぶやかれた苦悩に満ちた声を拾う者はいない。彼はゆっくりと地面から身を起こし、のろのろと書物を腕に抱えて、転びそうな足取りで領主の館へと歩き出した。

「父上、その方は」
 ふつりと浮かび上がるように響いた声に、群青のスカーフを頭に巻いた人影が振り返る。その人物の隣に、まるで寄り添うように立つ父親の姿に、少年は違和感を覚えた。彼の父親はかなり気難しい人間なのだ、初対面の人間とあんなに近くなることなどあるのだろうか。王都で流行している男性の長髪とまるで正反対に、さっぱりと切られた獅子の鬣のような黒髪をなびかせて、少年は自身の父親のほうへと歩み寄る。その目は彼の父親によく似て理知的なものを秘めていた。
 息子の声に父親もまた振り返り、人影を隠すようにわずかに立ち位置を変える。隠された人物からしても息子からしても、それはあまりにあからさまで、少年は眉をひそめた。
「わざわざキクリからお越しくださった魔導師様だよ、失礼のないように。こちらは私の息子のユージンと申します」
「ティフィト伯、いずれ彼とは話さねばならないのです、今告げてしまったほうが……」
 うっすらとした桃色の唇がわずかに開いたかと思えば、冷え切ったような声が零れ落ちた。一目見る印象とは違う声音、おそらく女性であろう彼女が帯剣しているのは、些か見慣れない形の武器だ。鞘に収まりながらもそれは異質さを主張する。父親とは違い、ユージンは戦いの鍛錬もこなしている。だからこそ彼女の細い姿とそれはあまりにかけ離れていて違和感を覚えたのだ。どうしてこの人は、こんなに危険な武器を手にしているのだろう。一般の女性兵士が持つものよりも、幅が広く重みもあるに違いない。
 キクリに住むのはエルフだからだろうか。彼女もエルフだからこそあのような武器を扱うのだろうか。
 一応は父親の望むように考えてはみたものの、それが間違いであることはユージンにでもわかった。彼女はエルフではない。そして、ユージンにとって、またはユージンの大切な存在にとって、よくないものをもたらす。
 そう幼い少年は感じた。
「それはなりません。貴公といえどそれを許すわけにはいかない」
 ぴしりと珍しく苛烈な声がユージンと彼女の耳を裂く。それはユージンが今までに聞いたことがないほど静かに猛り狂った声だった。少年と父親、そして女性の三人しかいない廊下の中、空気が凍りつく。ユージンは命知らずな女性を見やりすぐにでも謝罪することを促したいと思って見やったが、ひゅっと息を飲んだ。群青のスカーフから幽かに見える瞳は、まるで父親を飲み込もうとでもいうかのように、深い海の色を宿していた。
「伯に許されなくても私はそう望みます。彼ももうシェマでしょう。その子のことは理解しているはずだ。何も知らされぬまま踊らされるなど許せない」
「貴公は!」
 ユージンは思わずびくりと肩をすくめた。父親がここまで激昂しているのを久方ぶりに見たからでもあるし、まったくそれに対して悪びれない女性の態度が恐ろしいと思ったからでもあった。女性の目は父親をとらえて引き離さない。世界に働く引力という力そのものに、彼女の目は飲み込もうとしている。
 ふと、風が吹いた。
「いまだ父上からの呪縛に囚われている! それを私の息子や大切な子どもにまで強要しようというのか。来たるべきときが来たらあの子も気が付く。私もそれを支援するだけの力はある。貴公がすべきことはあの子から真意を聞くことだろう! 息子まであの悪夢に引きずり込むことはやめてもらおうか」
 あの子がだれを指しているのかは、ユージンにはすぐに合点がいった。この館の中で私の息子だと父親がいうのは、ユージン以外のもうひとりでしかありえないからだった。少年はわずかに息を飲む。女性の返答次第では、彼女がどんなに高貴な相手であれ、許すわけにはいかないと思った。
 まだ何も告げていない相手を、連れていかれるわけにはいかないと思ったのだ。
 開け放たれたままの扉から夕暮れを連れ込んだ風が吹く。群青のスカーフがはためいて、ふわりと巻き上がる。海のようなまなざしばかり眺めていた少年は、ふとスカーフから零れ落ちる白い髪にようやっと気が付いた。シルクの糸のように煌めく白髪に。彼の大切な存在のそれよりも冷たい色に。
「伯が子息を躍らせるつもりがないことなど承知している。それくらいなら「氷の女王」にだってわかる。しかし伯、来たるべきときが来てからでは遅いのだ。それでは遅い。現世の女王は待ってはくれない。彼女は再び利用する。幼子の命だろうが再び巻き起こる戦禍を最小限に収めるためには、彼女はすべてを利用する」
 カツン、と誰かの靴が音を立てた。くらりとめまいがしそうになるのを抑えながら、少年は顔をゆがめる。何故ここに、どうして、どうして。
「……貴公らは、王家は、あの子をどこまで不幸にすれば気が済むのだ」
 在位期間、わずか三年。
 アルフレッド王、儚き我らがアルフレッド王の妹にして、現女王の姪。
 王宮に住まうトルスの民を虐殺した、恐ろしき狂女。
 称せられた名前は、「ジゼル」。
「ああ……」
 ここにいないはずの少年が囁いた。ユージンがはっと息を飲んだその先で、扉にすがりつくようにして華奢な少年は憂う。銀色の髪が夕暮れを浴びて赤く燃え、額の一線がわずかに呼吸をしたようだった。
「……ついに、来てしまわれたのですね。女王陛下」
 するりと喉から零れ落ちるかのように小さい声は、けれど大理石の廊下に響く。もう一度風が吹いて連れ込まれたのは、夜のかすかな星だった。ユージンが救おうとしていた、星だった。
「待たせてしまって、ごめんなさい」
 ジゼルは笑わない。氷のようにひっそりと瞬いて、薄い唇がそう囁いた。