第三部 に落ちた彼と六花を願う

断章

2

「知っていたよ」
 耳元で囁くウィルの低い声の意味が、わからなかった。耳朶をかすめる吐息が、あのときのベアードのようだと思いながら、頭が理解を拒絶していた。
 やわらかに彼の指は私の髪を梳いていく。メアリよりもずっと不器用に、でも丁寧に。いつか私の髪を編んでくれたときのように。
「わかっていた。あの日は朝からおかしかったんだよ、シャルロット。家中の誰もが浮かれていた。誰もがその日やってくる来客を待ち望んでいた。それは俺にとっても一緒で、その日来るはずだったのは俺の婚約者の令嬢だったから。君といるときは君が婚約者だったらよかったのにって、何度も思ったけど、それでも友達にはなれるかもしれないと思って楽しみにしていたんだ。チューターが彼女の教養の深さを口説くから、俺はそれをとても楽しみにしていた。
 午後になってからだよ、おかしいなって思ったのは。君も知ってると思うけど、俺の部屋のすぐ外からは裏庭がよく見える。午後の鐘が鳴って、チューターが部屋にやってきて、俺は本を読んでいた。だから顔も上げないままいった。『午後は皇国史だっけ』。けど彼女は、いつもと違う声音でこういったんだ。『坊ちゃん、今日はよく晴れていらっしゃいますね』」
 ウィルの声が、震えた。そのときを思い出したのだろうか、私を掻き抱く手の力が強まって、髪を梳く手が止まる。耳元の近くの指先が、震えていた。
「君なら、その特異点に気づくんじゃないか。そうだよ、シャルロット。彼女は俺のことを坊ちゃんなんて言わない。最初に彼女が来たときそう呼ぶのをやめさせたからだ。それに会話の前後が成り立たない。そんな意味のわからない会話をあの家庭教師は好まない。だから俺は顔を上げないで、窓の外を見た。裏庭では見たこともない甲冑を身に着けた六、七人の人影が目に入った。父の兵士はそんなところからは入らない。親族の誰かが遣わしている者たちですら裏庭には近寄らない。王家のように墓があるから。
 賊にしてはあまりに物々しかったし人数も少なかった。少しは学んでいたから俺にもわかったよ、その事態が異常だっていうことは。俺に話しかける人物への違和感も、全部。だから近づいてくる足音を知りながら俺は本を閉じて机に置き、顔を上げた。その瞬間、何かで強く殴られた。……不思議と、怖くはなかったんだ。多分、隣の部屋に従兄のヒューイがいたからだろうけど、嘘じゃなく、俺は怖くなかった」
 彼の言葉は本当だろう。震えていた指やこわばっていた手は、さっきよりもずっと弱弱しくなっている。暖かいウィルの体温を抱きしめながら、私は黙って耳を傾ける。
「すぐには気絶しなかったんだと思う。扉がすごい音を立てて開いて、下階から悲鳴が聞こえてきて、ヒューイの怒声が飛び込んできた。剣を持っていたのかどうかはわからなかったけど、従兄は俺を殴り倒した奴にすぐに飛び掛ったんだ。一瞬、ヒューイの凄まじい形相を見て俺は安堵したのか逆に彼に怯えたのかわからないけど、気を失って、次に目を覚ましたときはヒューイの愛馬の上に、ヒューイに抱きかかえられて乗っていた。俺が目を開けたことに気づいたのか、ヒューイは顔を歪ませて笑った。『お前しか、助け出せなかったんだ』、ごめんな、彼はそういった」
 謝るべきは、私なのに。私たちなのに。
 ヒューイというウィルの従兄を、私はあまりよく知らない。父から聞いて知ったのは、ウィルや自身を救うために、泥水をすすって生きたということだけだった。そしてウィルとともにシエルタの豪気な男の下にたどりつき、苦労が祟ったのか病床に伏し、今は遠いディエンダ諸島で療養しているということだった。
 ジゼルの跋扈する、ディエンダ諸島で。
 ふ、とウィルは小さく笑って身じろぎをした。似合わない自嘲気味な音に、私の身体はびくりと跳ねる。ここから先を、できることなら知りたくは無かった。
「そこから先は、君も知ってるだろ、シャルロット。ヒューイと一緒にどうにかシエルタまで逃げ延びて、ヒューイはすぐに臥せった。俺は体調が回復するまでそこにいて、あの人に救われながら生き延びた。それから二年して一度だけ王都に帰ったんだ、なぜセシルフラスト公爵家があんな目にあわなければならないのかを、知るために。
 君やレティリア姉さんを、責めるつもりはないよ、仕方ないことだったと思う。ただ、憎むことを許されるなら、俺は君のお父さんを、俺たちの王だった人を、憎む」
 低い声が、怨嗟の声が耳の奥にへばりつく。それを振り切ってしまいたくもなるし、それすらもいとしく思える。
「シエルタの領主程度の力では国王の考えなんてわかるはずもない。けれどあの人は俺たちのために出来る限りのことをしてくれた。俺もすべてではないけど、わかっているつもりだ。シャルロット、正直に教えてくれ。レティリア姉さんは」
「だめよ」
 ぱしん、と小さな音が部屋に響いた。私が必死に伸ばした手で彼の口を覆ったから。こんな幼い行為をしたのは、いつ以来なんだろう、そう考える片隅で、私は切実に叫ぶ。
「だめよ、ウィル。その先はいってはいけない。あなたがこの国でこれからも暮らすためには、その先は、いってはいけないわ」
 目を見たくても彼の目を見つめることはできない。ただどうにかウィルを引き離せば、口を覆った手を振り払われ、鋭く、静かで残酷な目が私を出迎えた。ぞくり、と背筋が震える。怖い、と、初めて思った。
「シャルロット。もういいんだ。俺はこの国とはかかわりはない。シエルタの人間で、君だけの民だ。俺や、君に、もうこの国は必要ない」
 その言葉がさしている意味は、明白だった。考えなくてもわかる。でもそれでは意味がない、意味がないのだ。
「だめよ! だめよウィル、だめ。あなたは連れていかない。私は一人でいくのよ、あなたを連れてなんていかないわ」
「なぜ」
「……本当は、あなたはわかっているのでしょう? 私がこんなことをしている意味を」
「君がこじつけた意味に興味はないよ、シャルロット」
 静かな言葉が胸の中を引き裂く。わかってほしかったのに、伝わらないもどかしさが喉を掻き毟る。
「……あなたに興味がなくても、このエゴをあなたが受け取ってくれなければ、私はここにいる意味がないわ。ウィル、わかって」
「わからない。君はもう女王ではないんだろう? なら、俺に命令できないはずだ」
「さっきは私の民だといったわ。……どうして、どうして罪滅ぼしをさせてくれないの……!」
 思わず俯きながら声を絞り出してしまう。少しだけ引いていた涙がまたじわりと目じりに浮かんだことに気が付きながら、それをぬぐおうとしてけれどそれよりも先に、ウィルの指が私の目元をなぞる。今更もう振り切ることすらばからしく、黙って彼のしたいように身を任せた。翡翠の瞳を極力見ないようにしても、彼はそれを許してはくれず、水滴をぬぐい終わった親指が頬を伝い唇へと流れ、残された指と掌がそっと頬を包み込んだ。まなざしを合わせようとする力に抗いきれず、私はゆっくりと顔を上げて、彼を見る。
 どうしても、失いたくなかったウィルヘルム・イーサン・セシルフラストを。
「ロッティ、それは俺が、君のことを愛しているからだよ」
 身体中の熱が血が、一瞬にして引いたような錯覚に陥った。触れているウィルのぬくもりだけがすべてで、女性になりかけている身体はどこかに消えてしまって、ただウィルの存在だけが熱になって染み込んでくる。その恐ろしいほどやさしく無慈悲な感覚は、ずっと求めていたもので、だけれどそれに縋るわけにはいかないのだ。
「……あんな目に合わせたのは、私たちよ。ウィル、ありがとう、それでもだめ。あなたはこの国に残って、叔母様の作るイチェリナを見守るのよ。私じゃできないことを、あなたが」
 彼のまなざしがふと冷たくなる。そのたびに竦む心は、もう解けてしまっているのだろうか。氷の姫といわれていた、凍りついた心は。
「さっきもいっただろ、ロッティ。俺にもうこの国は関係がないんだ。俺を縛るものは、ひとつを除いてどこにもない」
「ではいつまでもあなたはそれに縛られ続ければいい。私は某かに囚われたひとを連れて行けるほど強くもなければそれだけの権力もない。お別れよ」
「話を聞けよシャルロット!」
「私の言うことを聞いて、ウィル!」
 互いに口から迸った言葉に当惑し、それでも互いの目を睨み合う。こんなにも愛しいと叫ぶ感情の渦をあらわにし合いながら、どうして睨み合わなければいけないの。そういってそのまま抱きしめられたくなっても、私は折れるわけにはいかないのだ。だから改めて強くつかまれた肩をひねって身を翻す。
 切望を孕んだ絶望を感じ取りながら、それでも私はきっぱりと言い放つ。
「あなたは私をあなたの王だといったわね。私は確かにイチェリナの王ではもうないわ。でもあなたの王になることはできる。あなたも認めているのだから。
 出ていきなさい、ウィルヘルム・イーサン・セシルフラスト。王の居室に死者が訪れるなどあってはならぬことよ。消えなさい」
 はっきりと死者と言い捨てる。四大公爵家の喪われてしまった一族の名を呼んで、線を引く。幼い子どもさながらに逃げようとする私を映すかのように、かすれそうな細さで描いた境界線を。
 翡翠のまなざしが大きく揺れた。信じられないといわんばかりに見開かれたその奥底に、彼の失望を嗅いだ。今すぐにでも嘘よと馬鹿なことを口走りそうになる唇をきつく吊り上げて、出ていきなさいともう一度繰り返し、背後の扉を顎で指す。女王だったときですら、こんな下品な態度などとったことはなかったはずだ。
 私たちはどちらも動かない。視線と呼吸で懇願し拒絶する。数刹那の応酬の末に、彼は顔をくしゃりと歪ませた。形のいい唇がかすかに震え、シャルロットと囁いた。
「さようなら、ウィルヘルム」
 愛しているわ。