第三部 に落ちた彼と六花を願う

断章

1

 最後に一度、今まで使っていた部屋に訪れることを許されて、私はそこで一夜を過ごすことをも許可された。明日の早朝、この国を発つ。それが異例な許可であったことは、サルサ老師の苦い顔から伝わったが彼は結局私も叔母をも咎めはしなかった。部屋の前に案の定兵士が置かれ、重厚な音を立ててしまる扉を無言で眺める。いつまでも変わらないと思っていたその重い扉は、たった一夜を他のところで過ごしただけで、より重く、より尊厳あるものに映った。ここを必死にうなってあけた記憶も、軽々とあけられてしまったときの驚きも、今も変わらず胸のうちにあるのに、もう私の心はここにはない。ここが帰るべき場所ではないと知っていた。
 薄いため息をついて隣室の武器庫の扉を開けようと手をかけて、ぎしりと軋んだだけでドアノブが回らないことに気がついた。それもそうか、私はもうこの城の主人ではない。だからあの天空の鎧セストの主人でもなく、私は武器庫にすら入れない。ドアノブは冷たくざらりとしていて、指先にほこりがついてすこしだけ不快だった。その扉によりかかりながら白い手に付着した小さなほこりを眺める。ふわりと息を吹きかければ、それだけで消し飛ぶような頼りない汚れ。私の手より汚れていないもの。
 それをふ、と吹き飛ばし、寝室へと移動する。おとといの夜開け放ったままだったはずの窓は閉じられ、頑丈な板で強固にふさがれていた。隙間から漏れ出す冷気は一体なんだというのだろう。不思議に思いながらもあの日去ったときと変わらずくしゃくしゃのままだった白いシーツに指を這わせれば、ふわりと鼻腔にマルドゥブルの香りが漂った。レティリアが、この部屋を使ったのだろうか。
 そんなはずはないだろう、彼女が使うことを望んだとして、それを侍従たちが許すはずがない。
 馬鹿げた空想に苦笑し、そのままベッドに寝転んでしまおうか、そう考えてふっと視線を先ほどまでいた部屋へと向けて、目を見開く。体が、痺れたように動けなくなった。
 向けられる、翡翠の瞳。
 夜闇に浮かび上がる琥珀の髪、見慣れたシンプルな従者服。いついかなる時もそばにいた、私の。
「……なぜ、ここにいるの、ウィルヘルム」
 静かな問いが唇から滑り落ちる。違う、これは私のやるべきことではない。私はすぐに部屋の前に立つ兵士に訴えなければならないのだ、不届き者がいる、とすぐに、伝えなければ。
 そう理性でわかっていても、体はこれっぽっちも動くことを許さない。ただ黙って夜闇から溶け出すようにして現れたウィルを、見つめることしかできなかった。震えているのは心か体か、それとも唇か。怯えを隠すこともできずに、ただ凝視し続ける。一夜で、すっかりと立場を変えた私を、彼はどう見るのだろう。侮蔑し嫌悪するのだろうか。私の起こした罪悪を糾弾するのだろうか、憎むのだろうか。
「衛兵を、呼ばれないのですか、陛下」
 軽蔑のこもった声だった。それを知って勝手な落胆を覚える。何て勝手な感情だろう、どうして私が失望などできるのだろう。黙秘し、守り続けたのは自分なのに。私自身の勝手なエゴを知られたくなくて、彼のあずかり知らぬところで勝手にものごとを進めたのは、私だというのに。
 す、とようやく動いた視線を逸らして、白いシーツを眺めながらぽつりと言葉を漏らす。
「私はもう、陛下ではないわ」
「なぜ」
 何を馬鹿な、とかすれた笑い声を上げる。そういえばこんなに寂しい笑い声を上げたのはいつ以来だろう。私はいつもどんな風に笑っていた? あの幼い日々は、私の立場とともにかつての彼とともに、消えていってしまったのだろうか。
「何を、馬鹿なことをいっているの、ウィル。私は今日でイチェリナ国王から退位させられたでしょう」
「ですが、あなたは王だ」
 毅然とした声が耳を打った。それは私を責めるのでもなく、ただ、まるで吐き捨てるかのように冷たく。
 思わず跳ねた肩をそっと抱きしめるようにして、密やかに笑みを刻む。ロッティではありえなかった表情と、声は、もう女王のものですらない。ただのシャルロット、ありふれた名前のつまらない女。手に剣だこをこさえた白髪の女のもの。彼の言葉におびえていようが、もう今は誰もかまわないのだから。
「民もいない、土地もない。国すらもないものをして、王は名乗れないわ」
 イチェリナの空を、見上げたかった。夜風に当たりたい。もう二度と見ることのできないこの城からの群青を、首が痛くなるほど見続けていたくても、打ち付けられた板のせいで臨むことは敵わない。だから白いシーツのゆがんだ皺を、沿うようにして眺めていた。柔らかな琥珀色の糸で施されたささやかな刺繍まで追っていたとき、ふいに熱い手が肩を抱く私のそれに触れた。びくりと大仰なまでに震えた手は振り払おうと跳ねて、けれどそれすらも引き止められる。冷気を、閉じ込めるかのように、握り締める、熱い指だった。
 顔を上げることができなかった。自身の胸のうちを懺悔するかのように、まぶたをゆっくりと閉じながら、顔は伏せたままだった。そうしてふっと悟る。これが、私の本当の裁判なのだ。私が犯した罪のせいで、人生を狂わされたウィルの手によって、裁かれる。それは何よりも正当なことのように思う。
「それでも、あなたは私の王です、シャルロット」
 降ってくる言葉に、けれど私は首を振る。そのときになってようやく、私は彼が私の犯した本当の罪を知らないということに気がついた。そうだ、彼は知らない。彼は、私がしたことを、知らない。
 そのあまりにも傲慢な思い込みに力を得て、私はゆっくりと顔を上げた。そうだ、彼は知らないのだ。知らないのなら、利用してしまえばいい。もうこれ以上私に近づけないように、傷つけてしまえばいいのだ。
 顔を上げたその先でけれど待っていたのは、すべてを見透かすかのような翡翠の瞳だった。ずっと奥に私には理解できない熱情を押し込めた、翡翠。
 ぞっとして指を、手を、引き離そうとしても熱い指はそれを許さない。むしろ捕まえるよう力を込められて私はみっともなく足を後ろへと逃がしてしまう。いやだ、いや、知りたくない、知られたくない。いや、とか細い声を零してもそのあまりの女らしさに吐き気がする。こんな女にはなりたくなかったのに、あんな女なんかには、なりたくなかったのに、私は今、どうしてこんなことをしているの。
「いや、いやよ、ウィル! 離して!」
「いやだっていうくせに、どうして大声を上げないんだよ、シャルロット」
 響いた声にはっとする。いつの間にか身体は小刻みに震え、視界はかすかに歪んでいるのに、それでもウィルの姿は私の目にきちんと映っている。あの日のように、いなくなったりなんてしない。
 絶望に似た怯えを混ぜた眼差しを受けて、彼は呆れてしまったのだろうか。小さなため息が空気を震わせた。そうだ、ウィルは生きて、ここにいる。掴まれた手は彼の指の熱を受けて、彼の体温を感じている。それを頭では理解できているのに、私の顔はくしゃりと歪み熱い水滴が頬を転がり落ちた。呼吸をすることさえ苦しくて、それでも泣きながら私の唇は必死に言葉を搾り出す。
「……ウィル、ウィル、ごめんね、ごめんなさい」
「シャルロット」
 近づこうとする彼を制し、首を振る。いつもの病気のせいではなくて、今息を詰まらせているのは教えたくないことだから。私の傲慢さを、エゴを、彼にだけは知られたくないことだったから。
 そっと手を引かれそうになっても私はそれを振りほどく。さっきよりもずっとあっけなく、躊躇いもなく解かれた指は熱を失って寂しさを訴えた。どうにかもう一度顔を上げて、奇妙な表情をしている彼には気づかないまま、知られたくなかったことを吐き出した。行かないで欲しくて、引き離されたくないのは私で。
 うらまれることを知りながら、告げる。
「あなたがあんな目に遭ったのは、私たちの、……私の、せいなのよ」
 ごめんなさいと零れ落ちようとした言葉を封じ込めたのは、彼の指だった。熱くて大きく骨ばった指。すんなりと美しいウィルの指。それは私の口を覆って、私を力強く抱きしめる。つきりと痛むのは心臓なのか、病巣なのか。暖かい体温にけれど私は凍り付いていた。
「ウィル」