第三部 に落ちた彼と六花を願う

七章 マニカの誓約

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 市民や貴族を帰し、両公爵家のいなくなった謁見室にて、残るのは罪人である私とレティリア、そして警備を任された兵士たちのみ。この体勢になってからどれくらいの時間が過ぎたろう、そんな余裕めいたことを思い返していると、ふいに玉座の隣に立っていた彼女はよろめくようにこちらへと降りてきた。顔を上げればそこに映るのは右目を本来の色に戻した、レティリア。狂女の眼を持つ女。兵士たちはそれにはまるで気づいていないように、ただ黙りこくって立っている。ジゼルの能力が惜しげもなく使われていた。
「シャルロット……!」
 囁くようにいって彼女は私を抱きしめた。あなたまで膝をつくことなどないのに、そんなことを思いながら、強張った指先をどうにか動かして、彼女の背に腕を回す。たった一日で、信じられないほどに痩せたように思う。
「お疲れ様でした、叔母様」
 穏やかにそう微笑めば彼女は痛いくらいに私を掻き抱く。レティリアの肩は自分と同じくらいに華奢だった。そしてそれはかすかに震えていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、シャルロット……! 私が、私がジゼルになんてならなければ……!」
 涙のにじむ声に首を振る。もうそれすらも終わったことだった。仕方のないこと、定められたことだった。震える彼女の背をそっと撫でて、その温かさに目を細める。ああ変わらない、彼女はきっと変わらない。それが尊いことだとわかっているからこそ、零れ落ちた涙を堪え切れなかった。
「泣かないでください、叔母様。これでよかったのですから」
「よくない、よくないわ、シャルロット! 何がソフィアよ、あなたを助けることもできないくせにソフィアなんて名乗って、馬鹿みたい……!」
 いつになく子どもじみた言葉を発する彼女に苦笑し、泣いている自分をごまかすようにただ笑みを刻む。思いつめて凍らせていた心が、ゆるゆると解けていくのを感じていた。ああもう自由に泣ける。自由に笑える。私の言葉を、紡げるのだ。
「叔母様は、立派なソフィアでした。彼女のように、私を救ってくれた。愚王だった私を」
「あなたは愚王なんかじゃないわ、シャルロット。何よりも大切な、私の娘」
 涙のにじむ優しい声がそう囁いて、彼女はそっと私を放す。そして向き合った色違いの瞳から、とめどない涙がこぼれていた。その幻想的なまでに美しい姿に胸を打たれながら、そっと頬を包まれて額が重なる。ほのかに刻まれた笑みが愛しくて哀しくて、彼女が本当に母だったら、と思わずにはいられなかった。
「本当に、あなたが母だったならよかった」
「ありがとう。でも忘れないで、私はあなたの二人目の母よ。憎んでくれても構わない、それでも私はあなたが大切なの。お願い、どうか無理はしないで」
「憎むなんてありえません」
 はっきりとした強い声で答える。私の頬を包み込む彼女の手の上に、自身のそれを重ねてその温かさに狂おしいほど切なくなる。ああもう二度とこの人と会い見えることがないのだと、いまさらのように思い出された。もう、会えない。
 それは兄たち、そしてベアードたちと同じ。
 互いの底の見えない瞳を映しあって、そこにこの優しい愛情の名を得ようとする。犬猿の仲を装っていても、そのたびに私たちは互いを傷つけあっていたと知ったなら、いったいどれくらいの人々が驚くのだろう。すべてを知られているような気さえして、それを暴露するわけにもいかず、私たちは背を向け合って生きていた。
 でも今は、重ねることができる、抱きしめてもらえる。最後、これが最後。脳裏を掠めるのは兄の冷たい指先、メアリの絶望に歪んだ顔、ベアードの痺れるように痛い口付け。次に死ぬのは私。この国から消える私は、死ぬのと一緒だ。
 ふいに彼女の瞳がゆっくりと閉じられる。同じようにまぶたを閉じるよう促され、戸惑ったままそっと目を閉じれば、戦士に送る祈りの言葉が流れ出した。
 思わず開きそうになる目をぎゅっと閉じる。彼女からの餞別の祈りの歌は、古代語が織り込まれて二つの声が響いていた。広い謁見室の天井へと高くたかく吸い込まれていく歌声。マルドゥブルという女神の名にふさわしい彼女の歌声は、静かに涙を浮かべて歌い上げられていく。私がこれから先進むだろう未来を指し示すかのように、はるか遠いかの国へと。
 レティリアの歌声を聴いたのは初めてだった。最初で最後。ありきたりで陳腐な言葉のはずなのに、それがこんなにも響くものだとは知らなかった。生きていてももう二度と出会うことのない人。
 ありがとう、つぶやいた言葉は歌声に飲まれて、空へと上っていった。