第三部 に落ちた彼と六花を願う

七章 マニカの誓約

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「な……」
 なぜ今。どうして。
 謁見室が一瞬で静寂に飲まれる。そして同時に湧き上がる絶叫。
 それを耳にうるさいと思いながらも、笑えるほどに宗教じみた彼らの悲鳴にほんの少しだけ眉をひそめた。なるほど、宗教といわれる所以だろう。そんなさめた考えをしていることをレティリアは察したのか、わずかに咎めるようにこちらを見た。そして、案の定巻き起こる喧騒。
 トルスの貴族たちが血走った目をして、私を殺そうと躍り出る。けれど四卿たちもいるというこの謁見室で、どうして私が殺されるはずがあるのだろうか。両脇に立つ兵士が緊張したように斧を構えなおす。立ち上がる必要もないままに、黙って目を閉じていた。ここで私がするべきことは、罪を告発されることだけ。他に何かがあるとするなら、私ではなくレティリアとサルサ老師がそれを行う以外ありえない。
「静まりなさい、トルスの民よ!」
 鋭い叔母の声がざわめきを堪えきれぬ謁見室を切り裂く。イチェリナの市民もさぞや困惑していることだろう、あんなにも美しい硬質的な氷の姫が、どうして義兄を殺したりなどするのだろう、と。いや、氷の姫だからこそ、家族を殺すことすらいとわないのやも、そんなささめきが聞こえるようだ。
「あなたたちの怒りはわかります。けれど、キャロライン様が亡くなられたのは昨晩。イレード邸から救い出されてしばらくのことでした。すでに検死も済み、彼女の死因も明確になりました。わが義姉は、幼いころから大変大きな病と闘っておりましたが、ドクのいうことによれば、それがついに限界を超したとのこと。だからといって、わが姪の罪は許されるべきことではありません」
 さぞやトルスの民からしてレティリアは唯一の味方に見えたことだろう。彼女の目は涙で潤み、ひそめられた眉が限りない哀れみを訴える。震える唇や指先、そのすべてを彼女は演技しきる。なぜなら、トルスにとっての唯一にして最大の敵は、紛れもなくレティリアなのだから。
 閉じていたまぶたを開き、そっと彼女を仰ぎ見る。目が合った叔母は、静かにひそやかに微笑んだ。彼女の隣には、兄も優秀な甥も、愛しい夫も息子もいない。ともに望んだ結末を描いたサルサ老師しかおらず、そして彼もいずれここから去る。この先ずっと彼女は一人、ただ一人なのだ。
 許されない狂女の血を右目に秘めて、ただ一人。
「イチェリナ王家の娘、シャルロット・フィオラ。あなたへの裁きは、イエラ・イチェリナの望むままに定められました。
 ――フィオラ・イチェリナの名、そして王位継承権を剥奪し、永久にわが国イチェリナからの追放を命じます」
 耳に痛いほどの沈黙が空間を満たした。そしてその直後、爆発的に湧き上がる喚声、絶叫、嘆き。そのすべてを黙って受け入れながら、もう一度頭を垂れる。処刑にしろ、殺せ、殺せ、その喚き声のほかに、演じ続けていた仮面を信じていた者たちの哀惜の声が、耳の中にこだまする。私の民、私の生きるすべてだった人たち。
 苦しみながら逝ってしまった、兄。
 赤を散らして、死んでいったメアリ。
 最後の口付けをして逝った、ベアード。
 憎んでくれて構わない。許されないことをしたと、いくらでも罵倒すればいい。それでも守りたい人がいて、守りたい国がある。きっと私は後の悪夢を引き起こした女王として後世に名を残すことになるのだろう。守りたい国に、憎まれて異国の地で果てるのだ。
 幸せだと、思った。
「あなたはこれからシャルロット。ただのシャルロットです。その意味をよく胸に刻み込んで、贖罪をしながら生きなさい。これ以上の罪を背負うことなきよう、生きなさい」
 定められてはいない言葉にふっと顔を上げる。レティリアの今回のためだけに作られた仮面が、初めて崩れようとしていた。毅然としたまま冷たい言葉を放つべきはずなのに、彼女の唇は震え顔面は蒼白になって、哀しい思いを訴える。そんな顔をしてはいけないのに、その思いで穏やかに笑って見せた。サルサ老師や両公爵家の当主の顔色がほのかにこわばる。怯えているのだろうか。
「ええ、無論です、叔母様」
「減刑を、望まないのですか」
「必要ありません。正当な刑でしょう」
 静かに返答するその言葉に、激昂した貴族の男が叫ぶ。
「何が正当な刑だ! 第二妃を殺したくせに……っ、レティリア殿下、あなたは甘すぎる!」
「そうだ、殺せ! 殺してしまえ! トルス帝国皇帝陛下が許すと思っているのか!」
 勢いに乗ったように何度も繰り返される、殺せ、その言葉を受け流しながら、レティリアの目を見つめていた。そう、他にもいうべきことがあるでしょう。それをいえば、私を殺すためにトルスの貴族たちは刺客を放つ。さあ、叔母様、いうべき言葉を忘れないで。
 彼女の唇が一瞬わななき、そしてきっと目を吊り上げた。そして言い放つ言葉。
「許せぬというのならば厳刑にいたしましょう。シャルロット、あなたにはこの国に蔓延るジゼルを根絶やしにしていただきます。ジゼルを、わが国の悪夢を殺しなさい!」
 人を死に追いやった者に、人を殺させる。それは考えるまでもなく悪夢であった。レティリアの顔はもはや倒れそうなまでに白い。最後までそれを拒んだのは私でもなくサルサ老師でもなく、彼女だった。その遠い話し合いを懐かしく思い出しながら、唇を引き結ぶ。思わず目を見開いているように見えるだろうか、そう思いながら、けれどかすかに指先は震えた。握り締めた指が痛い。剣だこのできた手、幾度となく戦場で人を殺したこの手。
「……ご、冗談でしょう?」
 そうかすれた声をつむぎ出せば、謁見室の中でそれはあまりに弱々しくか細いものに聞こえた。先ほどまで立ち上っていた怒気は翻り、怯えたような恐怖が見え隠れする。市民の幾人かは、恐怖を隠そうともせずにか細い悲鳴を上げた。
 しかしレティリアはまっすぐに私の目を見つめたまま、もう一度いう。強張った声だった。
「殺しなさい、シャルロット。シェルマのときから戦場を駆け巡ったあなたなら、造作もないことでしょう……? できぬ、とはいわせません。ただ一人だけ、誰の救いも得ることもなく、彼らを一人残らず討ち取るのです」
 ある種、もっとも残酷な刑なのだろう。事実幾人かの貴族たちは悲鳴を上げて震えているようだった。それでも大半は、私の反応を食い入るように見守っている。それを知っているからこそ、諦めたように答えなければならないのだ。
 頭を垂れて、宣告を受け入れる。わななく唇は、演技でもなんでもなく、心の底からの怯えを映し出していた。わかっていたことだった。私がなさねばならない、こと。
「……それが、イエラ・イチェリナの意向であるならば」
「無論です」
 きっぱりと告げられる言葉に、広間には痛い静寂が漂った。それを肌で感じながら、震える両手を必死に抑える。サルサ老師が厳粛な声音で判決を繰り返し、祈りの言葉を促す。どのような罪人であろうとも彼らに対し贖罪を促す祈りの言葉は忘れてはならない。そのイチェリナの風習に則って、大勢の祈りの言葉がイエラと、そして私自身へと謳われる。響く声は高い天井にこだました。