第三部 に落ちた彼と六花を願う

七章 マニカの誓約

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 謁見室には、両翼の公爵家をはじめとし、城内に住まう貴族や、立ち入りを許可された市民が大勢詰め掛けていた。それもそうだろう、一世一代の大事だ、これを見ておかずして何を待つ?
 王室のすべては、市民すべてが注目している。彼らの一挙一動を監視し、自分たちにどんな娯楽を与えてくれるのだろうかと、そればかり見つめているのだ。それは卑しいことでもなんでもない、彼らの唯一の楽しみだ。それを理解していながら、大して面白いゴシップを作らなかった私は、ある意味格好のネタだろう。即位して三年。わずかそれだけで、彼女は許されざる罪を犯した。
 塔を出る際に着替えさせられた衣は、喪に服すためのドレスだった。兄を喪ったときとは違う、質素でシンプルな喪服。皮肉のように黒のそれを縁取るは、あの国トルスの藍色だ。顔を覆い隠すのは黒で編みこまれた美しいレース。私はこれを着てこの国を去ることになるのだろう。
 ただひとつだけ華やかな色が混じるとするならば、髪をひとつに結わいた赤のリボンだけだ。これだけは何があっても引き離すわけにはいかない。これがなければ、私は生きてすらいけない。
 開け放たれた扉から、赤い絨毯が一直線に玉座へと向かう。ほんの少し前まであそこに腰掛けていた自分が、罪人そのものに玉座を前にしてひれ伏す。そうあるべきだったのだ、そんな感傷的な思いに浸りながら、穏やかに両膝を着く。顔を上げる必要もない。
 謁見室にいる観客たちは息を呑んで私のその姿を見つめていることだろう。痛いほどの視線を感じながら、必ず起こるであろうはずの罵声が聞こえないことに少しだけ戸惑う。罵声を浴びせるだけの価値もないと、そういうことなのだろうか。自嘲めいた笑みを唇に刻み、穏やかに頭を垂れる。もうこのまま処刑されてしまってもかまわない、そんな背徳的な思いが浮かんだころになって、ふいに謁見室の空気が変わる。
 ああ、彼女がやってきたのだ、そう思った。
 仰ぎ見るようなことはしない。きっと彼女は玉座に座ることを拒み、その隣に立つのだろう。今日はどんなドレスを召しているのだろうか、白薔薇の名にふさわしい白? それともトルスへの敬意を払って藍だろうか?
 張り詰めた空気の中、彼女の震える声が囁く。
「シャルロット・フィオラ・イチェリナ。面を上げよ」
 促されるままにそっと顔を上げて、彼女のまとう喪服に目を見開いた。黒のドレスは今私が着ているそれと酷似しており、凝った意匠はトルスの国章が描かれていた。謁見室にいる者たちが息を呑むのもうなずける。大国イチェリナが、トルスに対し喪に服しているのだ。それはトルスの民からすればどうしようもないほどに腹の立つ話だろうが、これがイチェリナ王家としてのけじめのつけ方だと、はっきりと彼女は告げていた。
 そして、同じドレスをまとうということは、それ以上の意味を示す。けれどそれは王家のものでなければわからない。
 ソフィアが最初のころに私に送ってくれた、イチェリナ王家としての心構え。その中に女性ならではのひとつがあった。レティリアの唇がソフィアの教えを、声に出さずに刻む。
(喪に服すとき、同じドレスを着る者があらば、その者は同じ罪を背負う。死者に対する咎を)
 絡み合う視線がわずかに震える。その碧眼の中に浮かび上がるのは、あの塔で会ったときと何一つ変わらない憐憫と、そして、愛情。
 あなたのその目に見つめられるたびに、心がかき乱されそうになる。わななく唇を必死に噛んで、泣き出すことを堪えていた。ここでの私は裁かれる罪人でなければいけない、哀れな過ちをした少女ではなく、傲慢な思い込みによって民を裏切った女王でなければいけない。
 サルサ老師から手渡された紙を受け取り、レティリアは静かにその羊皮紙に視線を落とす。そして一度目を閉じてから静かに声を上げた。謁見室の中に響き渡る、罪。
「イチェリナ王家の娘、シャルロット・フィオラに問う。あなたはトルスの民を、何の理由もなく殺した。そして自身の義兄であるベアードを。これは間違いですか?」
「いいえ、そのとおりです」
 間髪をいれずに答える。巨大な広間の中、いやがうえにも緊張感は高まっていく。誰かが小さな悲鳴を上げて、それがわあん、と謁見室にこだました。それを静かに聴きながらもレティリアから目をそらすことはない。そらしてはいけない、むしろ睨みつけるようでなければ、私の罪を人々は知らぬままになる。それではいけないのだ。
「なぜイレード邸ごと焼き払ったのです」
「かの国はわが国イチェリナに害意しか持ちません。ならば邸など不必要」
「口を慎みなさい。私が訪ねているのは理由です」
「それが理由ですわ、叔母様」
 吐き捨てられた言葉にたまらず誰かが暴言を吐いた。トルスの貴族もそれに便乗して怨嗟を撒き散らす。騒々しくなった広間をサルサ老師がどうにか黙らせ、レティリアに続きを促す。彼女の頬はわずかに紅潮していた。それはきっとはたから見れば憤っているように見えるだろう、そう、それでいい。
「なぜ、ベアードを」
「私が王になった後も、彼には王位継承権があったからですわ」
「王位継承権はあなたが子を生せば彼からは廃位されます。それをよく知っているはずでしょう。何を血迷ったというの」
「廃位された後も、かの魔女は新たな王位継承者を生み出す。私はそれが許せなかった」
 魔女という侮蔑のこもった言葉にトルスの貴族たちが激昂する。それを黙って聞いているのも耐えがたく、迷うことなく立ち上がって回りをまっすぐに見渡す。怒りに目を吊り上げた女に見えているだろうか。
「あの女が魔女といわずして誰が魔女だ! トルスの貴族たちよ、お前たちは彼女の蜜を吸って生きてはいないと証明できるのか! あの女によって孕まされた女たちよ、なぜのうのうと生きている! 彼女は罪悪だ、彼女こそが罪人だ! なぜうらむことなく生きている!」
「黙りなさい、シャルロット。今咎められているのはキャロライン様ではなく、自分だということをお忘れなきよう」
「……はい」
 ピシャリと叱咤する言葉に目を伏せて、もう一度跪く。トルスを思って泣く貴族たちの声が不愉快だった。けれどトルスからただ単に移住してきた市民たちはどうなるのだろう。これから巻き起こる戦は、トルスの民がここで生きるにはあまりにも辛い。
 自分とは関係のないことに思いを馳せながら、黙ってレティリアの瞳を捕らえる。彼女は疲弊したような顔で、哀しそうに眉をひそめていた。それは確かに彼女の本音でもあるのだと思うと、苦しくなる。こうなるために生きてきた、それを理解していたとしても、自身の姪を糾弾するのは楽しくはないだろう。
「シャルロット・フィオラ。あなたが犯した罪は許されざること。
 まず、かの国から御身を預かっていたトルスの民を虐殺したこと。
 そして、自身の義兄であるベアードを毒殺したこと。
 いかような処分をも覚悟していますね?」
「勿論ですわ、叔母様」
 にこりと艶やかに笑ってみせよう、それで彼女が納得するのなら。浮かび上がった笑みを見つめて、レティリアは胸を痛めたように羊皮紙をくしゃりと握り締めた。それが、予定とは違う演技だと気づいて目を見張る。
 震える指先を必死に堪えて、レティリアは囁いた。苦悩に満ちた声だった。
「キャロライン様が、亡くなられました……」