第三部 に落ちた彼と六花を願う

七章 マニカの誓約

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 ふと目を開ければ、ほのかに暖かな光が眼球を焼く。寝てしまったのかとわずかに苦笑しつつも、先ほどまであんなに痛んだ胸はどこも痛くはなかった。それゆえに終わりを感じずにはいられない。
 もうすぐ尽きる、この命。
 小さく吐息を漏らし、まだ散らかったままの資料を取り上げようと本を手に取れば、その間から紙が数枚落ちていった。はさんだままだったのだろうか、彼女らしくないとそれを手にとれば、それらは全て便箋だった。その中には彼女が先ほど出した一枚の手紙のほか、私がソフィアに宛てた手紙とソフィアから私へと宛てられた手紙も一緒になって挟まっていた。それらを一枚一枚手にとって確認しながら、懐かしい言葉の数々に目を細める。どうして今になってレティリアは彼女の手紙を持ってきてくれたのだろう。
(私たち王族は殺し方も、殺され方も知らなければいけない)
 ああ、懐かしい。確か私がシェルマになった年だった。改めて彼女が重々しくそう説いてきたのは。手紙をめくれば裏につらつらと並べられている箇条は、すべてがイチェリナ王家としての心構えのようなものだった。遠い異国にいることになっている彼女。この手紙を見たらまず間違いなくその存在が疑われるだろうに、あのときの彼女は思いつかなかったのだろうか。くすりと笑いながら、次の手紙を見る。
(ルシル、アルフレッド陛下が亡くなられたそうね。あなたは無事かしら。帝国の魔女に騙されてはいない? 辛くなったならいくらでも私たちを頼りなさい。私たちは二人で一人。あなたの払った犠牲に対する敬意よ。何でも言って頂戴な)
 ソフィアも叔母のレティリアも、帝国を憎む気持ちだけは強固なままなんら変わりない。二人はよく似ている、と苦笑しながらそれをめくり、火に透かされたそこに何か文字が刻まれていることに気がついた。ただのインクで書かれたものではなく、火に炙ることで蘇る古代文字。今までどうして気がつかなかったのだろうと眉をひそめ、それを火に炙れば、手紙はぱちぱちと爽やかな青色の炎を立てて古代文字が躍り出た。
(きっとあなたがこの文字に気づくのはずっとあとのことでしょうね。マニカはそんな愚を冒さない。あなたから手紙を受け取ってその都度したためていたのよ、あなたに対する懺悔を)
 言葉の意味が、わからなかった。なぜ彼女がそんなことをしていたのか、どうしてこうやって謝罪をするのか、わからなかった。
 もういいの、そう囁いた叔母の優しい声が耳元でこだまする。彼女はどうしてああいったのだろう? あんな弱気な言葉を吐いたのだろう、私たちにはまだこれからの仕事があると知っていながら、どうしてあんなにらしくない言葉を。
 どうして。
 疑問符は消えないまま、手紙はちろちろと青い舌を出しながら、言葉を高らかに歌い上げていた。それを追う私の目は、静かに見開かれていく。
(ねえルシル。マニカはいつもあなたに対して罪悪感を抱いていたのよ。偶然とはいえ、マニカは彼女の兄上、前アルフォンス二世の視線を全て負わざるおえなくなったことを。本来なら息子や娘に注がれるはずの感情の代わりに、彼は年の離れた不幸な妹の面倒を見なければいけなかった。
 かわいそうな妹のためには、可愛い息子や娘も犠牲にしなければいけなかった)
「そんなことは、ないわ」
(そんなことはないと、あなたならきっというでしょうね。でも違うわ。アルフォンス二世が選んだのは、どうあっても残りわずかな命しか生きられない子供たちではなく、この先長いときを生きるジゼルだった。マニカが不幸な偶然によってそれになってしまわなければ、彼はきっと息子や娘が死に逝くのを承知で、子供たちに王位を継がせたでしょう、あんなに愛していたのだもの。
 知っている? あなたたちが生まれた当時、彼の関心ごとはあなたたちの成長だけといっても過言ではなかったのよ)
「あの人が?」
(信じられなくても無理はないでしょうね。彼は顔に出すのがことごとく下手な方だったから。でももしきっとあの人が生きていたなら、おっしゃるでしょう、マニカに全てを任せたのは間違いだったと。
 ルシル、忘れないで。あなたはセシルフラスト公爵家の嫡男を取り戻すために、私情ゆえにあの取引をしたのだと思っているのでしょうけれど、それは偽りよ。あれは仕方のないことだった。あなたがそうせざるおえないと知っていたからこそ、彼はあの取引を持ちかけたの。忘れないで、あなたのしたことは間違いではない。
 そうするしかできなかったのよ)
「違うわ、本当ならできた。私が、彼を諦めていれば」
 諦めて、どうなったというのだろう?
 言葉がぷつりと消える。自分が発した言葉が途切れたことすら気づかずに、私は茫然と立ち尽くしていた。だって、私が諦めていれば、少なくとも彼は、彼は救われたのだ。
 でも、彼一人が救われて、一体何になるというのだろう?
 彼だけはシエルタの土地であの豪気な男と共にあの地を守り、そして他の都市はぼろぼろに崩れていく。最初は王室の腐敗から。いなくなってしまう私たちと、抑止力を失ったジゼルは躊躇いもなく土地を蹂躙し、そして腐敗は静かに侵攻していくに違いない。
 個人的な感情だけで、一人の人生を覆す。それは王族だからこそできることであり、そしてしてはいけない唯一のことでもあった。その過ちを犯しながら、彼に許されようなどと、愛されようなどと、笑ってしまうほど滑稽な話だ。
 じわり、と涙が滲む。苦しかった。悔しかった。そうするしかないと本気で思い込んでいた過去の自分の目を覚まさせたい、本当に必要なのはなんなのだと。でもきっと違う結論を出したところで、私は後悔しないはずがないのだ。
(マニカが王になったなら、国内は荒れるでしょう。そも、サイラス卿嫡子とどちらが正式に王位を継ぐのかさえわからないのだから。でもそうしなければいけない。そうでないと、帝国の侵略を止められない。不幸な偶然で手に入れたものでも、活用しなければ意味はないわ。
 そしてそれは、セシルフラスト公爵家惨殺事件も、彼にとっては一緒だった。活用しなければ意味がないもの。それの効果があるのは、あの当時城で何より親しかったあなただけだわ。幼いゆえに、望む気持ちは何よりも強い。
 もう一度いうわ、ルシル。あなたの選択は、間違いではないのよ。それをどうか忘れないで。
 あなたが人生を変えた彼のために)
 そう、私のせいで彼の人生は変わったのだ。それだけはどうしてもどう足掻いても変えようのない事実。それがこんなにも克明に文字に示しだされて、あまりの狂おしさに続きを消し去りたくなる。どうかお願い、あなたの懺悔が聞きたいわけじゃないの、だからやめて、やめて頂戴。
 そう思っても、手紙を火にくべる手は止まらなかった。最後の一枚を青い炎にすかしたそのとき、城のほうから聞こえてきた静かな鐘の音に一瞬呼吸が止まる。ああ、王としてのシャルロット・フィオラ・イチェリナが、ついにこの世からいなくなる。
(いつだったかしら、覚えている? あなたは私のこの目を見ていったわね。もしもあなたが狂うようなことがあれば、きっと私はあなたを殺すために舞い戻る、と。
 私はその言葉を信じているわ。これからも生まれ続ける忌むべきジゼルの血を、あなたの、いえあなたではないかもしれない、あなたの子孫かもしれない彼らが、きっと絶やしてくれるだろうことを信じている。
 ルシル、いいえ、シャルロット。
 最期の手紙くらい偽る必要などないでしょう、いずれこれは燃え尽きる。灰からは言葉を描けない。
 ありきたりな言葉でごめんなさい、でもこういう他がわからないわ。
 今までありがとう。
 これまでもこれからも、あなたの幸福を祈ります。
 さようなら)
「女王陛下」
 不意に聞こえた老婆の声に、そちらを見やれば兵士たちが緊張した顔で数名立っていた。その中に埋もれるようにして立つめくらの老婆は、見えぬ眼に私を映してぽそぽそと言葉を落とす。静かな、宣告だった。
「参りましょう」
 手の中の便箋はすべて灰になって、ふわりと風に揺られて散っていった。その様を穏やかに追いながら返す。冷たい何かが、頬を伝っていった。
「ええ、そうね」