第三部 に落ちた彼と六花を願う

七章 マニカの誓約

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 叔母が兵士を連れて出て行ったあと、残された資料の山を確認する。積み上げられたそれらは図書館からそのまま持ち出されたのだろう、随分と埃をかぶっているようだった。その中の一冊を手に取り、ぱらりとめくってみれば、もわりと埃が立つ。眉をひそめながら改めて表紙を確認すれば、そこに記されていたのは「ジゼル」という文字。かすれて読みにくいが、もう一度中を改めれば案の定手書きの診断書のようだった。確実に禁書であることがわかる代物だ。
 つまりこれだけのジゼルの研究がされていたという事実になる。あの老婆がめくらでなければ冗談ではすまないことになっていたのだろうことを、彼女はわかってやっているのだろうか?
 ふう、と浅いため息を吐いて椅子に腰掛け、他の資料を確認する。一通り見終わった頃にはすでに外も夜の濃さを増していた。疲れた目に冷たい手をのせて少しだけ休憩をとりながら、ざっと見た資料の種類を反芻する。
 ジゼルに関する診断書のまとめが二冊、二世代前の王家に類する本が一冊、牢獄の囚人録が一冊。特に囚人録が厄介だ。下級役人が手を抜いたのだろう、年代ごとにまとめられておらず、字も汚くて判別しにくい。ただ、脱走者に関しては朱の印がはっきりと押されていたから、それを確認すればどうにかなるだろう。
 レティリアは、私にどれだけの猶予を与えてくれるつもりなのだろうか。
 せめて、私がジゼルの生態を理解するまでは、二世代前のジゼルを契った相手を見つけるまでは、時間が欲しい。それまではこの国から追い出されるわけにはいかないのだ。
 しかし同時に、後処理に追われているはずの彼がこちらに戻ってくるよりも早く、ここを出なければいけなかった。もう一度、あの憂いに満ちた翡翠に、向き合える気がしなかった。あまつさえそれを振り切って、飛び出すなんてこと。
 甘えてはいけない。私には私の成すべき仕事がある。そのためにはまずこの書類の山から、彼女を絆した男を推測しなければいけない。
 ちらりと窓の向こうの本城を見やり、白んだ光を受けて煌くそこに静かな祈りの言葉を述べる。私にはこの城の記憶と、赤いあなたのリボンだけがあれば、もうそれで。
 きっと生きていける。
 ふうと小さな息を漏らし、静かに本の山に向き直った。そしてそれを滑らかに紐解いていく。途中で老婆を何度か呼び出し紙とインクを追加させながら、目は夢中になって本の活字を追っていった。
 しばらくして、わけのわからぬ事実に手が止まる。囚人録から読み解ける意味が否応なく頭に突き刺さってきた。
「この時代の、脱走者はすべて死刑囚……?」
 二世代前のジゼルがいた当時は、特に脱走者が多い。朱印がされたものの数は区別しただけでどの時代よりも圧倒的に多かった。その脱走者たちの中に、これが驚くべきことに死刑囚以外が存在しない。しかも彼ら受刑者同士には一切のつながりがないとされている。しかし彼らが逃げ出したその日は、全員が全員同じ日だというのだ。そこに含みを持たないと考えるのはただの阿呆である。
 死刑囚が逃げ出す、これはむしろ当然のことだろう。逃げなければ死ぬ、しかし逃げるのに失敗すればより辛い死が待っている。その彼らが動かされたのは一体何によって? しかも確認してより驚いたのが、逃げ出した脱走者たちは皆が皆、もう一度捕らえられ処刑されていたのである。
 逃げ出させるように誰かが仕組んだ? いや、しかしそこに何の意味が?
 ぱらりとジゼルの診断書を片手間でめくりながら、さらに考えを推し進めていく。死刑囚を確実に死刑にさせることで得をするのはどこだろう。
 まず受刑者の食べ物を準備している国庫が何よりも一番に上げられる。だがそんなことのために宰相がこんなに極端な決断をくだすだろうか? この当時王都だけで死刑囚を含め囚人数はわずか四十二人。それくらいならば国庫から出しても多少はもつだろう。
 次に死刑囚そのものの存在が許せえぬ過激思想家。しかし彼らが死刑囚八名の存在すべてを認知しうるのか? いやそれは不可能だ。このうち高位魔導士が一人いるのだ、彼らは存在を抹消される対象である。どんな過激思想家であろうとも知るはずがない。
 では、一体どこが……、そのとき手元に見えた字に、私は目を見張った。書いてある言葉の意味がわからなかった。
「対照、実験……」
 診断書を見ているだけではただその一言しか載せられていないため、推測も何もできないが、考えられることがある。対照実験と明記されるその字の下に書き記されていたのは、日付と丸が七つ。かすれて読みにくい、いや故意にそうしたのであろうその下の文章には小さく、残りの一人は実験に、と読める。あわてて囚人録をめくり別に分けておいた死刑囚の記録を見やと、案の定八人中七人はジゼルの実験が行われた日と同じ日に死んでいた。七人全員が。残る一人はというと、どう読んでもそこには、脱走者としての朱印が二つ。
 そうか、朱印が二つということは、二度脱走をした。一度目はジゼルの実験のために牢から出され、彼だけが生き残り、そして二度目に。
 彼はこの城から逃げ出した?
 それが、まさか今回のジゼルの元凶なのだろうか? でもありえぬことではない。ジゼルの実験のために何をやったのかこれでは推測できないが、もしもそれが本当なら?
 ジゼルに死刑囚を殺させた。それは彼女の能力がどれほどのものかを確認するためだろう。そして実験結果は、診断書を書く側の人間からしたら喜ばしいものだった。しかしジゼルの実験はこの後休止し、そしてそのまま二度と行われることなく、この塔は貴族用の牢獄へと成り代わる。
 逃げ出させた理由はジゼルに彼らを殺させるため。そして一人生き残った男は、おそらく交配実験に利用された。
 口が歪んだ。吐き気に口元を押さえる。やるせなかった。
 もう見たくないと資料を全て床に落とし、ぐ、と奥歯をかんで目をつむる。聞こえるのは私自身の静かな鼓動の音と、そしてかすかな息遣いだけだった。それすらも罪深いことのように思えて口をきつく押さえた。このまま、窒息してしまえばいいのだろうか。
 叔母様に、知らせなければいけない。彼らが生まれた経緯を。不確かとはいえ十分ありうるその推測を。もしもこの推測が真実のことならば、ジゼルたちが国境を越えた時点で彼女の立場は一気に悪化する。トルス皇帝の妹姫を今や城の最奥に閉じ込めているのも追加され、もしも叔母がこのことを知らないままだったならば、大陸国第一国イチェリナの失墜に繋がってしまう。国が、傾く。
 そうするわけにはいかなかった。すべてがすべて彼女のための舞台だというのに、こんな遥か昔の因縁のせいでむちゃくちゃにされるわけにはいかないのだ。だから私は今すぐにでもここを出なければいけない。
 ちらりと城を見やる。すっかり日が昇り、窓の向こうに映し出された幻のように美しいそこに、二人の女が待っている。私がこの推測を紙に記しそれが彼女たち、二人でひとりの女の下に届くことを待っている。そんな気がした。
 のろのろと落ちた資料を取り上げて、羊皮紙にさらさらとペンで言葉をつづっていく。ずきずきと身体のどこかが、病巣が、はっきりと痛みを主張していた。薬はどこに持っていたのだったかしら、そうぼんやりと思いながらも手を止めることはない。頭が痛んで、呼吸をするのも苦しかった。
 戦場で戦って人を自分の手で殺すのとは違う。兄が苦しみながら死んでいくのをとめることもできずにいたこととも違う。
 利用されて、踊らされていった者の、死だった。哀れだった。悲しかった。
 心の半分で死刑囚なのだから死んでしまっても構わないと思っている自分が、ほとほと嫌になった。この手で他者を殺すことの何が偉いのだろう? 崩れていった赤い髪の少女。綺麗に結わかれたリボンさえも解けて赤に塗れた彼女。
 わからなかった。何も、わかりたくなかった。