第三部 に落ちた彼と六花を願う

七章 マニカの誓約

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 私の叔母は黙ったままだった。ただあやすようにリズムをとった手が背中を優しくたたいて、それがやはり母のようで面映く感じる。もしも私が彼女の娘だったなら、きっとこの手にすがりついて泣き出していたのだろう。
 でも、とゆっくりと呼吸を整える。わかっている、彼女が聞きたいのは私の弱音ではなくて、私がこれから何をする気なのかということくらい。泣くのはもうやめたはずだった。
 ふうとため息を吐けば、叔母はようやく私を解放した。そっと視線が交わって、私たちは静かに微笑み合う。秘密を共有しあうことは、いついかなるときでも楽しいものだった。そうやって私たちは少女のように、いつまでも秘密を抱き続けていたのだ。
「シャルロット」
「はい」
「私にはあなたを救えない」
 きっぱりとした声音だった。わかっていることをこうも整然と目の前に突きつけられるのは、傷がえぐられるようで苦しい。痛むような自身を嘲笑いながら、私は緩く苦笑し、言葉を返そうとすればそれは彼女の手によって制された。
「あなたは私のための犠牲よ。あなたもずっとわかっていた通り。あなたのお兄さん、ううん、アルもベアードもそう。すべては私のための犠牲。私もあなたも同意して、私たちは、兄さんと私とあなたの三人は約束をした。三人とサルサ老師しか知らない国に関わる約束を」
「ええ、わかっています」
 碧眼と紅の眼がまっすぐに私を捉える。そこにはかすかな憐憫と、何か違う感情が含まれていた。そう、私は彼女にとって哀れみの対象。
「いいえ、わかってないわ。あなたはあの子を守るために、取り戻すために約束した。そのために払った犠牲は、あの幼いロッティを殺すには十分なものだった。それの意味を理解していて? あなたを利用した立場でありながらこんなことを言うのはお門違いだってわかっているけど、あの子には助けるほどの価値があるの?」
 すっぱりと切りつけるような声に思わず息を呑む。そう思われていたなんて知らなかった。ただ彼女は私を馬鹿だと思っているのだと、そうずっと思っていたのに。
 二つの色違いの瞳は私を見つめたままはっきりと問いかけていた。
「あの子のためにここまでして、なのにあの子を置いていくの? あなたはそれで本当にいい……」
「やめて」
 聞きたくなかった。馬鹿な私を自覚したくなかった。
 とっさに耳を塞いでぎゅっと目を閉じる。ああこんな子供じみた真似、したくないのに。でもそれ以上に嫌だった。聞きたくない、言わないで。私のやってきたことをすべて無為になんてさせたくない。
 だって私は彼が必要だった。諦めてしまえばよかったのに、それもできなかった私は父に泣きついた。彼が、誰よりも必要だったから。
 レティリアの吐いた小さなため息が耳の隙間から聞こえてきて、体がびくりと震える。呆れられているのは知っていた。私だって呆れている。こんなことをしたって彼はいつか離れていってしまうとわかっていたのに、今引き離そうとしているのは紛れもなく私。離れたほうがいい。私は彼と一緒にいたって何もできない。
 もう、権威あるこの名前すらも失うのだから。
「シャルロット」
「お願いです、叔母様。この話はやめましょう。こんな話、無為ですわ」
「どうして。あの子を置いていったって、きっとあの子はあなたを追うわ。助けておきながら突き放すつもりなの? 守ってもらったことも忘れて、陰謀渦巻くこの土地に一人置き去りにするのかしら」
 涼やかな声が憎らしかった。私たちは一体いつからこうやって向き合って話しているのだろう? もうどれくらいの時間が過ぎた? どうして老婆やもう一人の兵士はやってこないのだろう。ぼんやりとそんなことを考えながら首を振る。
「違う、違います。私が彼を助けていなくとも、彼はシエルタの豪族の養子として迎え入れられていたわ。私がやったことは無駄だった」
「どうして。まさかベアードのいうことを本気にしているの? あの子はあの子よ。あなたが愛してやまなかったあの子よ。ドクだって本人だといっていたじゃない。あなたがやったことは無駄じゃないわ。……私が、それを認めたくないだけ」
 ふと最後に聞こえた言葉が、小さくつぶやくように聞こえてきて、私は困惑しながら彼女を見上げた。色の違う双眸は深く翳り、沈みこんでいるように映る。初めて見る、顔だった。
 私が見ていることに気づいた彼女は薄く微笑んだあと、そっとその白い指が私の頬を撫でた。メアリやウィルに私がしていた、あまりにも些細な愛情表現。彼女がそうやるのはきっとそういう意味ではないのだろうけれど、そのほのかな冷たさが心地いい。
「どうしてあなたはあの子のために、これまでやってこられたのかしら」
 桃色の唇からこぼれた言葉は、静かで悲しげだった。どうして彼女がそんな声音で言葉を紡ぐのかわからず、私はただ困惑して彼女を見守っていた。
 レティリアはほのかに甘い吐息を漏らしながら続ける。
「ねえシャルロット。ソフィアもいっていたでしょう。人の気持ちは移り変わる。どうしてあなたはいつまでも彼を待っていられたの? どうしてあなたはあの子を愛し続けていられたの? 苦しくなかったの?」
 その苦しそうな声が何かを私に伝えようとしていた。瞳を見上げ、彼女が本心からそう尋ねていることを知る。どうしてこの人が苦しそうなのだろう。私はそこまで痛ましい姿だったのだろうか。
「不思議なのよ、シャルロット。どうしてあなたはあの子を選んだのかって。四大公爵家の嫡子だから? セシルフラスト公爵の忘れ形見だから? あの事件の凄惨さを忘れたくなかったから? ……どれも、違うのでしょうね、あなたのことだから」
 ふわりと彼女は微笑んだ。今日ここに来て一番の美しく柔らかな笑み。花のようなその笑顔にどうしてか鈍い胸の痛みを覚えながら、私は彼女の言葉を聞いていた。
「あなたは、いつまでも彼を想い続けるのね。それがどんなに苦しいことだとわかっていても、いつまでもいつまでも彼を追うのね」
 答えることもできないまま、彼女の瞳を見つめていた。優しさの中に潜んだ哀れみを痛烈に感じながら、私は何も言い返せなかった。
「それなのに、彼を置いていってしまうのね」
 それは、アルフレッドがあの人を置いていったことと同じだというのに。
 そんな声が、聞こえた気がした。