第三部 に落ちた彼と六花を願う

七章 マニカの誓約

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 知っていることだった。
 兄二人はおそらく知らなかっただろう。それに今彼女の伴侶となったサイラス公爵家嫡子も、彼女の子供も知らないその事実。あれほど長くこの王宮に居座ったキャロラインですら知らないだろう。
 すべてを狂わせたのは、きっとエロイーズという存在。彼女の心のうちに秘められた狂気だった。
「……ここで、だったのですか」
 わずかに震えた声が憎らしい。そんな風に思いながら彼女の目を見つめれば、こくりと頷いた。そして興味を失ったように寝台へと腰掛ける。
「そのときのことはあまり覚えていないわ。私よりもそのあと手当てをしてくれたお母様の侍女に聞いたほうが、確かなことはわかるでしょうね。痛みしか覚えていないの」
 その声音はひどく寂しいものだった。それもそうだろう、愛していた母が、突然自分にわけのわからないものを植えつけてきたのだから。
 はっと顔を上げて彼女を見やる。まだ何事かを考えているようだったけれど、聞いておかなければいけないことがあった。
「叔母様、それはどうやってあなたのものになったのですか?」
 禍々しい光を放つ紅い右目を、白い指先で覆いながら叔母はふっと笑んだ。向けられる視線は冷たい。
「聞いてどうするの? 私がジゼルに飲まれないとは限らない。人工的なジゼルの量産は不可能よ。私がそれを許さないわ」
「わかっています、でも知っておいて損ではない」
「シャルロット」
 突き刺すような声に、知らぬ間に落ちていた視線が彼女の元へと戻る。まがいもののジゼルは、けれどそのはっきりとした紅い眼を吊り上げて、私を睨みつけていた。そのいつになく冷たい表情にぞわりと身の毛がよだつ。私はまた、いってはいけないことを口にした?
「損得の問題ではないわ、シャルロット。あなたはもう王でもなんでもない。むしろこの国から追放される庶民以下の罪人よ。それを理解していて? 私が罪人如きにそんな有益な情報を流すと思う?」
 有益、といってしまえばそうなのだろう。ジゼルが人工的に作れれば、しかもそれを人として制御できるならば、恐ろしい軍隊をも作ることができる。紅い眼のジゼルは、魔力を持たぬはずのトルスの民にも関係なく、莫大な魔力を与える。もしも人工的なジゼルの軍隊を作るとすれば、それはトルス以外にありえない。
 そう冷静に考えながらも、叔母の怒った表情を久々に見たな、とも考えているのもまた事実だった。以前は、そう私たちが幼い頃は、義兄と口げんかをする彼女の姿を見たことがある。私とも時々言い争いをしていた。それは、いつからなくなった?
 私が、ウィルをなくしたあの日から。
「申し訳ありません」
「謝って欲しいわけじゃないわ、シャルロット。もう少し理性的になりなさいといいたいの。あなたは何をそうあせっているの? 私たちが成すべきことのために、あなたの残りの仕事はたった二つじゃない。あなたが薬さえ忘れなければ、どちらもどうにかできることでしょう? だから私たちはあなたを選んだの。忘れたわけじゃないでしょうね?」
 ひとつ頷くことで応えれば、ため息まじりの声が聞こえてきた。
「何をそんなにあせっているのか、教えてくれる気はないようね……。ねえシャルロット、私はそんなに頼りないかしら? あなたが自身の思惑を語るには私では役に立たない? 私では王位を受け継ぐにも当たらない?」
「そういうわけでは」
「あなたがそうやって黙り込んでいるならば、そう受け取るしかできないのよ! 甘えないで、シャルロット。私はあなたのメアリやウィルとは違うわ。対等な立場にいる生身の人間でしょう。あなたが教えてくれないのならば、私はあなたを勘違いしたまま生きることになるのよ。そんなのごめんだわ。甥っ子の片方には嫌われたままでも構わないけれど、あなたに嫌われるのは嫌。私をソフィアだと思って手紙のように話して頂戴」
 言い募る言葉にずきりと胸が痛んだ。そのときになって初めて、どれほど自分がこの嫌い合う演技をしていた叔母を、美しいレティリアを、慕っていたのかに気づく。そう認識した瞬間、何か熱いものが目から零れ落ちた。思わず手で顔を覆いながら、それでも確実に彼女に見られていたことに恥ずかしくなる。一体どうして。
 レティリアは側へと寄ってくると、膝をつきながら視線を合わそうとしてきた。それから避けるようにして顔を横に逃がせば、温かい手が私の頬を捉えて顔を覆ったそれをはずす。見られることを避けながらも、涙ははらはらと流れていった。兄様を喪ってフォエマの館で泣いたあのときから、枯れ果てたと思っていた涙が、流れていた。
「シャルロット」
「ごめんなさい、気にしないで。何でもありませんか」
 ら、そう言う声は弱まっていた。優しい手つきで私を抱きしめる人がいたから。
 立ち上がった彼女は腹に、つい二年前まで長子レイザルドがいた腹に、私の顔を押し付けながら、緩やかに頭を撫でてくれていた。あやすような手つき、優しい、母の手。
 彼女は母なのだ、ふとそんな当たり前のことを思い出した。レイザルドを生んで、彼を優しく抱きしめた母。乳母たちと相手をすることが多い長子は、けれど母のことを愛しているに違いない。そんな、わけのわからない確信を抱かせる優しさが、そこにはあった。
 母の手を覚えていない。私が生まれると同時に息を引き取った母。肖像画でしか会わない彼女は兄そっくりで、自身に似ているところがあるかと不安になった。少しでも母の愛情を知りたかった。父にあやされ、兄に護られ、叔母に抱きしめられ、ベアードに慰められ、ウィルに愛されてそれでいて、私は母の愛情が欲しかった。
 きっと、私はレティリアに母を見出していたのだろう、そう思う。赤の他人ではない彼女に、よく似た母を。だからまた得たはずの母を失って、私は泣いたのだ。
 もちろんそれだけが理由ではないのだろうけど。
「何でもないわけがないでしょう? あなたはいつもそうね。傷ついていないふりをする。凍り付いて、痛みなど感じていないかのように超然としている」
 痛みに鈍感でなければいけなかった。
 苦しんでいる時間がなかった。早くこの日を迎えるために、そのための準備に追われながら、同時に国を統べなければいけなかった。自分に向けられる嘲笑や軽視は受け流さなければいけなかった。少なくとも、そうでなければやっていけないと、自分が崩れてしまいそうで怖いと、怯えていたのだ。
 強くなければいけない、傷ついてはいけない、苦しみをあらわにして誰かにすがってはいけないと思い込んでいた。それがイエラのような英雄の証だと。
「もういいの、もういいのよ、シャルロット。あなたが自分の痛みを隠す必要はないの。それは王族だけの仕事よ。もういいの、シャルロット。泣いていいの。苦しみを訴えていいの。だから教えて、シャルロット。あなたは何に苦しんでいるの?」
 優しい声、抱きしめる腕の細さ、泣きたいほどに甘く香る「母親」の匂い。こぼれていく涙をこらえ切れずに、私は静かに言葉を口にした。
「不安、なんです。これからこの国を出て、誰一人、知り合いのいない世界で、生きていけるのか。ジゼルを一人たりとも逃さずに、殺すことができるのか、大魔女に会うことができるのか、わ、私、一人で生きていけるのか、わからなくて。怖い、怖いんです。死ぬのは怖くない、でも、でも」
 不安が、身体を心を押しつぶす。侵食し神経の末端まで侵されていくような恐怖。動けなくなるような不安感。
 いつだってその不安は付きまとっていた。でも必ず側に誰かがいたからやってこれた。
 けれど、この国を出てから私は本当に一人。あの国にたどりつくまでに本当の名前を失い、もう二度とシャルロット・フィオラ・イチェリナを名乗ることもできない私は、一体何者になるというのだろう。
 名もなき追放者。
 オレリー・テルディモアは一体どんな気持ちだったのだろう。この国を、愛した人に捨てられて、愛した土地から放り出されて、誰も彼女を知らない世界で生きるなんて。
 どれほど、怖かったのだろう。