第三部 に落ちた彼と六花を願う

七章 マニカの誓約

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「私の母、エロイーズのことはよく知っていることでしょう。あなたは私よりも可愛がっていてもらったくらいだもの、覚えていないなんていわれたら怒るわ。……ふふ、冗談よ。
 お母様はお父様、アルフォンス一世に嫁いで、お兄様を生んで数年後私を生んでから亡くなった。儚い人生だったから佳人薄命といわれてとても愛されたわね。
 あなたも彼女の葬儀に出たのは覚えているかしら? 彼女のための花は青のサルビアだった。あの純白の教会が晴天のように青に染まったあの日のこと。あなたは濃紺の喪服を身に着けて、お義姉様の腕に抱かれていたわ、青のサルビアの花を耳につけて。アルも同じ、黙ってお義姉様の隣に立っていた。
 お兄様は、立派だった。まだお母様が亡くなったことをきちんと理解できていなかった私に、すべてをゆっくりと教えてくれた。私ではなくお兄様が葬式を挙げてくれたことを、私は今も感謝しているわ。彼にとっても、大切な人の式だったのに。本当は、聞きたいことも、教えて欲しかったこともあったろうに。
 ごめんなさい、話が変わってしまったわね、戻しましょう。
 お母様はユーフェスニア公の傍系の生まれだった。もとより身体が弱くて、いつ死んでもおかしくないような身だった。それでどうしてお父様に見初められたのか私にはわからないけれど、彼は彼女を後妻に選んだ。……そうね、あなたの知るエロイーズというおばあさまは、第二妃。その前に正妃、オレリーがいたわ。アルフォンス一世に不貞を働いたとして、早急に国から追放された正妃、オレリー。
 ここから話すのが、妥当かしら。
 お父様、アルフォンス一世がまだ若い頃、彼はオレリー・テルディモアと出会った。衝撃的な出会いだったことでしょうね、国一番の美女と名高い姫と、いずれこの国を継ぐ者との出会いは。誰がセッティングしたわけでもないのに、いずれ出会うことには違いなかっただろうけれど、アルフォンス一世とオレリーは冬の舞踏会で出会った。
 あとはもうとんとん拍子に話しは進む。オレリーの立場は右翼テルディモア公爵家として申し分ないし、何よりいつまでも結婚を先延ばしにしていたアルフォンス一世をようやくつなぎとめることができるんですもの、誰もが躍起になって彼らを祝福したわ。これでイチェリナ皇国は安泰だ、と。
 けれど、考えてみて御覧なさい。その当時我が父上は二十六、かたやオレリー嬢は丁度シェマの十九。歳の差は七。それはこの国でもどこでもあることでしょうし、二十近く歳の離れた仲睦まじい夫婦もいらっしゃるわ。でもオレリーは国一番の美女といわれるほどの女だった、それは裏返せば引く手あまたともとれるわね。
 なら、一人の男に満足なんてできるわけないじゃない。
 結婚して数年後のことだったわ。オレリーの部屋からは、たくさんの数の密会状が見つかった。それを密告した侍女はその後にエロイーズの侍女となるのだから、因果は回るのね。
 世間は彼女に対してひどく冷たかった。もうその頃にはアルフォンス一世の心も彼女からは離れていて、オレリーをしばしこの塔に監禁してから、エロイーズは第二妃として迎え入れられたのよ。
 ……ええ、今のはでまかせではないわ。オレリーは数年間ここで監禁されていた。
 それから彼女は国外追放を言い渡されたの。そのときにはエロイーズはすでにあなたのお父様を生んでいたわ。不道徳なことかもしれないけれど、正妃の不貞を考えればなんともないわね。むしろオレリーを処刑しなかっただけでもかなり寛容な処置といえるわ。
 オレリーを監禁する数十年前までは、あなたも知っている二世代前のジゼルがここにいた。ここはジゼルのための塔だものね、当然よ。
 果たしてオレリーはそのことを知っていたのかしら? いえ、それはないでしょうね。
 ジゼルという存在は押し隠すもの、むしろ本来なら殺してしまうのが普通だった。けれど二世代前のジゼルは生かされ、いえ、この塔ができた時代を考えれば明白だろうけれど、遥か昔首を刎ねられることもなく、遠い国へと送り出されることもなく、ここに幽閉されていた人はいたのでしょう。その人物と同じように二世代前のジゼルはここで暮らしていた。この塔を守るあの老女のような者たちに守られ、監視され続けながら生きていた。だから、ただの正妃であり、右翼テルディモア公爵家の長女としての彼女に、それを悟らせるわけにはいかなかった。
 ジゼルという存在はこの国にとって、稀に生まれる悪夢よ。それは生まれれば泡のように膨れていって、いずれぱちんと弾け飛ぶ。狂気の風に乗せられた死臭に触れれば、腐っていく者もある。
 そんな存在が王族から生まれたことは、両翼にはもちろん、サイラス公爵家、そして他国に知られるわけにはいかないわ。いえ、ジゼルが生まれれば使用人が減るのだから、気づかない人がいないはずがない。もちろんジゼルが生まれたらしいという噂は城の中に蔓延することでしょう、でもその事実を知る者はそのときの王と本人と母しかいないわ。そして大抵はジゼルとして生まれ出た者は、何もわからぬまま殺される。
 または、実験対象として幽閉される。
 二世代前のジゼルも、それ以前のジゼルも、同じようにこの塔に幽閉され実験の対象となったのでしょう。私はその部屋に入ったことはないけれど、エロイーズはそこすらも熟知しているようだった。私を迎え入れたその日、彼女は決して入ってはいけない場所といって、教えてくだすった。
 不思議よね。右翼テルディモア公の長女オレリー・テルディモアには、真実の末端すらも教えなかったというのに、左翼ユーフェスニア公の傍系エロイーズ・ユーフェスニア公にはこの塔の真実を教えてしまうなんて。それはアルフォンス一世がよりエロイーズを愛していたからかしら? ……私たちにはわからないことね。
 どちらにせよ、私のお母様は傍系。ユーフェスニア公には大切に育てられた愛娘がいたけれど、正妃はともかく第二妃としてすら選ばれなかったから、その反発からかエロイーズは公爵本人からは冷遇されていたみたいね。彼女もそれを理解していたから、公爵家よりも王家に忠実だった。だからきっとお父様はお母様にその秘密を教えたのでしょう。
 ジゼルの存在を。
 もとより身体の弱いお母様だもの、誰にも教えることはないだろうと思っていたのでしょう。でもお母様は遊び足りない私を迎え入れて、この塔の秘密を教えた。
 エロイーズは私そっくりの碧眼だったわ。書斎に飾ってある大きな肖像画を、あなたはご覧になったことはあるかしら? 小さい頃あの人の腕に抱かれたことがあると、覚えていて? ふふ、別に覚えていなくても仕方ないわ、あなたはまだ生まれたばかりだったもの。
 優しくて嘘のつけない人だった。夢見がちでいつまでも心は少女そのもののようで。無論白痴ではないわ。彼女は聡明で理性的でそして儚げだった。いつその命が消えてしまうのか、いつ彼女がここでないどこかへ行ってしまうのかと、私はいつも不安だった。お兄様は、そうではなかったようだけれど。
 今思えば、彼女はきっとすべてを知っていたのね。お兄様の考えを、私たちの成すべきことを。
 だから私はここで」
 不意に長い言葉がふわりと宙に浮かびあがり、余韻が静かに小さな部屋を満たす。髪をいじっていた彼女はその手をとめ、すたすたと歩いて私の前に立つと、微笑みながら自身の右目に手を当てた。手袋のはめられていない白い手は、少女のようにすべらかだった。
 手が離れたそこから、漏れる色。
 美しい空のような碧は完璧に失われ、どこまでも異形にぎらぎらと歪んで光る、紅。
「ジゼルの証を与えられたのだもの」