第三部 に落ちた彼と六花を願う

七章 マニカの誓約

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「殿下、せめて護衛の一人もつけていただかなければ」
「うるさいわね、シャルロットを投獄した今、この城で誰が一番偉いのかあなたは知っていて?」
 ぴしゃりと鋭い叔母の声が聞こえたような気がして、寝台から身を起こす。いくら彼女でもまさかそれほど愚かではないだろう。犬猿の仲であるという建前が崩れてしまうではないか。
 けれど私の希望に反して格子越しに現れたのは蜂蜜色の髪の女だった。突き刺すような視線を受けて嘆息めいたものを吐き出す。しかもどうして彼女の手には資料の山があるというのだろう? この国の王族はここまで自由奔放に育てられていただろうか。
「昨夜ぶりね、シャルロット。牢獄の居心地はいかが?」
 皮肉めいた口調とともに年老いたあのめくらの女を促し、鍵を開けさせる。そのまま入っていこうとするところを兵士がようやく止めに入り、そこで茶番めいた劇が展開されていた。改めて彼女が一児の母であることを疑いたくなる。
「殿下、困ります」
「いくら殿下といえども、相手はトルスの民に火を放った方ですぞ」
「馬鹿ね、そのトルスの民に火を放ったお方はお前たちの王でしょう。そして私の姪よ。こんな問答を繰り返すだけ無駄だわ。私はあの子と話さなければいけないことがあるの」
 きっぱりと吐き捨てる声に、兵士たちがしどろもどろと応答していた。さすがに兵士や女が哀れに思えてきたのだが、今の私に発言権はない。というよりレティリアの従者のカミーユはどこにいったのだろう、彼がいなければここが収まるとは到底思えない。案の定いらだってきたのか、彼女の眼光が鋭くなっていった。
「いいかしら。これは王族の会話よ。お前たちが口を出せると思って? それほど信用できないというのなら、誰かカミーユかサルサ老師を呼んできなさい。あの者たちに見張らせればいいでしょう」
「今呼びに行くには時間がかかりすぎるでしょう」
「その間に殿下が牢獄内に入ってしまわれたら、私たちがティシエ卿にお叱りを受けます」
 いっそ叱られてしまえといわんばかりに彼女は兵士たちをねめつけ、それから一つため息をこぼすと左側に立っていた兵士を指差した。その美しい碧眼が厳しく細められ、一瞬、別の光がこぼれたような錯覚を覚える。
「仕方ないわね。あなたが来なさい。一切口を利いては駄目よ」
「かしこまりました」
「は、では外でお待ちしております」
 ようやく兵士も納得したのか、残されたもう一人はめくらの女とともに引き下がり、レティリアが兵士一人を引き連れて部屋の中に入ってきた。彼女の腕から資料の山をありがたく引き受け机の上に置いた。その間つれてこられた兵士は瞳に色を映さずに、ただ黙って扉の前に立っていた。彼女はそれを確認したあと寝台へと腰掛ける。私たちはまっすぐに向かい合っていた。
 懐かしい瞳。これほどまっすぐに彼女の目を見たのは、一体いつが最後だろう? 久しく会っていなかったかのように思う。長子レイザルドを生んで、何が変わったわけでもない。むしろ以前よりもその眼光の鋭さは増しているだろう。
「わざわざどうしてあなたがここに?」
「安心して、レイの世話は侍女に任せてあるわ。このことを知っているのもそこの兵士たちと、あの老女しかいない。何も問題ないでしょう?」
「彼女は気にせずとも兵士たちは口を割る」
「構わないわ。どうせあなたはここから消える」
 静かな言葉が重なっていく。私たちの視線は一度も離れることはない。
 レティリアはふ、と息を吐いて立ち上がり、机の上に置いた資料から、便箋を取り出した。手紙を裏返せばイチェリナ王家の文様と、それに寄り添うような白薔薇。私が彼女ではないある人に当てた手紙だった。それの角を口元に当て、彼女は私に視線をくれた。
「なぜ、この資料を?」
「ジゼルがここに幽閉されていたと聞いていましたから。叔母様は彼女が誰と契ったのかご存知ですか?」
 答えなど得られないと知りながら一応問いかけると、彼女はわずかに眉をひそめた。それもそうだ、イチェリナ王家の家系図はあまりにも複雑怪奇で、王族自身ですらすべてを理解しているわけではなかった。その中で特に、ジゼルに関する項目や禁忌を犯した世代などは、まるきり記録が残されていない場合が多い。
 つまり、誰が正統なイエラ・イチェリナの後継者かを、私たちは知らない。
 けれどその失われた家系図も、なければ確実に問題が起きることはわかっている。私たち王族本人たちには知らされていないが、その正しい経緯を記している人物がいるらしい。ジゼルに関して知りたいならばその人に尋ねればいいのだろうが、私たちが王族であるうちは、本人と会うことが許されないのである。
 そう、私たちが王族であるうちは。
「どうしてそれを知りたいの?」
「もしも罪人であるならば、野に放たれたジゼルは私が処理しなければいけない対象でしょう」
 一度彼女の黄金色の睫は柔らかに震え、そして開かれた碧眼は私を見てかすかに笑った。以前ならなかったもの。より濃厚な色香を混ぜたその視線の中には、けれど鋭い真理が隠されているように思う。
 便箋を資料の上に戻して、彼女は座る私の背後に立った。もしも彼女が刺客ならば確実に殺せるようなその距離に、ひとりでに身体が強張る。それを知りながら叔母は私の編みこまれた髪をゆるやかに解き始めた。拒否することもなく、ただ黙ってされるがままになる。
「私と彼女に一切面識はないわ。私が自我を持つよりも早く亡くなってらっしゃったし、この塔も使われているところなど見たこともなかった。でも、そうね、あなたにだから話してしまいましょうか」
 穏やかな笑いを含んだ声を聞きながら、するりと首筋を撫でる指に目を細める。つ、と当てられたその爪の鋭さにじわりと恐怖が忍び寄り、思わず息を止める。彼女はやはり笑っていた。
「一度だけ、私はこの塔に忍び込んだことがあるの。遠い昔のことだけれど。そのとき私を迎え入れてくれたのはね、私のお母様だったのよ」
 私の祖母、エロイーズ。
 その人が一体なぜこの塔に? 彼女はジゼルでも何でもなかったはずだ、私の懸念が伝わったのか、彼女はこくりと頷いて微笑んだ。
「少し、昔話をしましょうか」