第三部 に落ちた彼と六花を願う

七章 マニカの誓約

09

 ようやくすべてが始まるのかと、暗い部屋の中思いにふける。叔母に連れて行かれた部屋は、無論今までいた王の私室ではなく、貴族のための牢獄だった。下賤な者が入れられる部屋とは違い、そこは無意に広くけれど同時にひどく冷たい色を灯していた。
 唯一ある窓も、飛び降りて自殺を図られないように鉄格子がされている。他にあるのは大きな寝台と、質素な机のみ。ペンもインクもそこにはないというのに、どうして机などあるのだろう。
 ここに入るのは初めてだった。普通の王族ならば決して入れられることのない牢獄。城とは少し離れたところにあるその塔は、少し時代を遡ればあのジゼルが幽閉されていたこともある。本来ここは、王家から生み出される彼らのための場所だった。この名もない塔に仕える者は皆、身体が不自由な者のみである。健全な身体を持つ者はひとりもおらず、大体が揃って高齢の人間だった。彼らはこの塔を守るために生きている。
 二世代前のジゼル。話したこともない彼女は、一体誰と契ったというのだろう。忍び込んだ愚かな罪人だろうか。もしまだ時間があったのならば、それも調べることができるだろう。いや、まだやろうと思えばそれは可能だ。
 部屋の隅の呼び鈴を鳴らせば、しばらくして年老いためくらの女が壁を伝いながら歩いてきた。暗い紫の脂ぎった髪が、手に持つ燭台の上の火によってちらちらと燃えるように映っていた。
「どうかしましたか、女王陛下」
「申し訳ないけれど。叔母様に二世代前の資料をこちらに持ち込めるか、頼んでいただけるかしら」
 イレード邸が火に包まれ、トルスの民たちが犠牲になってから一夜明けた。私が公の場で裁かれるとしたら、もう幾日か経ってからだろう。それまでにやることは、できることはもう何もない。あとはすべて、レティリアの仕事だ。
「お尋ねしておきましょう。不具合はございませんかな」
「ええ、大丈夫。ありがとう」
 鷹揚に応えれば、彼女は慇懃に礼をしてからまたそこを立ち去った。本来ならいるべき護衛や従者もそこにはいない。ここにはひとり、私きり。
 せめて本でも残してくれればいいものを、そう思いながら椅子に深く腰掛けて窓の向こうを見つめた。そこから見えるのはつい昨日までいた本城。それは明るい光を灯していながらも、どことなくそれだけでは済まされないことを匂わしていた。イチェリナ王家をいつまでも縛り続ける血の香り。
 狂王。彼は一体何を求めていたのだろう。嘘か真か定かではないが、彼はかつて大陸国、空国、海国の三国を治めた唯一の存在ティホスであったという。遥か昔三国は下らぬ領地争いを繰り広げており、本来ならその国間の交流は行われていなかった。しかしティホスという後の王は、禁忌によって生み出された、三国の血をすべて継ぐ者だったらしい。彼は三国の長い争いに終止符を打ち、自身は現在ディエンダ諸島と呼ばれている小さな島に一つの国を作り上げた。それから歴史という数字の羅列の中では、本当に一瞬のような、けれど彼らにとっては長い月日が流れ。
 狂王は、生み出された。
 その当時の記録など大陸国として残しているはずもない。あるとするならば断片的に読み取れる空国、海国の歴史書だけだろう。狂王が生まれるまでの史実を知る人間など、不死といわれている明志国の玄王の領主煌穂か、どこにいるかも定かでない大魔女エレフィナあたりしか思い浮かばない。いや、そもそもそういった存在がいること自体異例なのだ。
 冷えてきた指先に息を吹きかけて、そっと暖めながら考察を進める。
 狂王が生み出されたとなったとき、どうして他の二大国空国、海国は動かなかったのか、それがどうしてもわからない。そもそも彼らがどのように生きているのかというのも、国交を持っているところでなければわからないのが事実だ。もしその史実を知りたいならば、面倒な手続きをすべて終えて渡航しなければならない。すべてが終わってからそれを行うのもありだろう。確実に彼らはそのとき大陸国から手を引くことを選んだのだから。
 それでもまだ一部との国交は保ち続けている。かく言うわが国イチェリナも、空国との国交は盛んである。市外はどうも居心地が悪いのか城周辺、都市部から移動ができないのが難点らしいが、探せば羽や羽毛を持つ人物が歩いていたりする。それからイチェリナとの同盟国フィシュもまた、海国との国交は盛んだった。今もフィシュ国の王に祝い事があれば、海国から使者が使わされてくるらしい。一度会ってみたい。
 今、それは少し違うことだ、と首を振る。つい脱線してしまった。
 狂王の恨みはもっぱら大陸国の生き物、ことに人間に対して向けられていた。まるですべての悪は人であるかのような、そんな言葉をも吐き出したらしい。大昔の歴史書にはそう記されているが、それすらも本当かどうかはわからない。
 彼にとどめを刺した英雄、イエラ・イチェリナ。ヒーローにしてヒロインである彼女だけが、子孫まで続くような呪いを受けた理由は一体なんだというのだろう。詳しくは明記されていないが、どこの国もこぞって彼を倒すために動いたはずだというのに、最後にとどめを刺した彼女にだけ、残された血の呪い。これがよくある物語なら、必ず、遥か昔大陸国といわれたこの世界を呪うだろうに。
 わからなかった。彼がイエラ・イチェリナに呪いをかけた理由が。
 そもそもイチェリナ王家に続く呪いは数が多い。それほど恨みが深いとはいえるだろうが、もしかしたら何か違うものが混じっているのではないだろうか。ジゼルだって他国にも時折生まれることはある。なら、やはりジゼルは別物なのだろうか。
 私や兄を襲った、病。短命だということが事実なら、それはやはりイコールで結ぶことも可能だろう。私もあまり長くはない。それは既にドクターからも宣告されていることだった。決められたときに薬を飲まなければ、下手をすればもういつ死んでもおかしくないと。
 いずれ、剣を振るうことも、できなくなるのだろう。
 自分の白い手をじっくりと見つめてみる。城で働く貴族の侍女たちのほうが、余程滑らかな手をしている。私のそれは剣だこができていて、手首のところは少しだけ皮膚が厚い。骨折したことがないからか細さはあまり変わらないが、きっとフォエマやベアードのそれよりも、男らしい手だろう。この手で、人を殺した。
 手だけではない、私の考えること、ひいては父の策略を継ぐことは、そのまま人を殺すことに繋がるのだ。
 それが、王族としての定め。
「……ごめんなさい」
 呟いたところで戻ってこない命の数を知りながら、窓の向こうの城を眺めた。灯ったすべての光が、消えていった命のように見えて、静かに涙が頬を伝っていった。