第三部 に落ちた彼と六花を願う

六章 トルスの狂騒

08

 女らしい甲高い悲鳴が続けざまに耳を突き刺した。大仰にとまでは言わないがゆっくりと身を崩す義兄の視線は、最期まで私の目を貫いていた。美しかった藍色の瞳がどろどろと濁っていく。その淀みが、身体中に絡みつくようだった。恐怖を覚えることもなければ、苦痛もない、だが身体は動かなかった。
 私は彼の死を見なければいけない。私の兄のために生み出され、父によって利用され、そうして私のために殺される存在の死を。最初から最後まで、きちんと見つめなければいけない。それが生き残った私のやるべきこと。それがあなたに贈る餞だ。
 馬鹿げた話。
 私にそんなことをいう資格などない。あなたの死を見ておきながら、まるでそれを正当であるかのように語るなど、どう考えても馬鹿げている。人の死に正当も不正もない。そこにあるのは、一人の人間の喪失で、そしてその人物を悼む人々の嘆きだけだ。
 藍色が、どろどろと濁る。淀む。暗く沈んでいく。
 もう意識すら低迷しすべてがどこかに、死に、流れ込んでいくのだろうけれど、彼の中にはまだ意志があった。伸ばされた腕は義母の手を退けて、ぐいと私の腕をつかんだ。そのまま彼の腕の中に引き込まれ、拒絶を訴える間もなく呪詛の言葉と唇が重なる。目の前に現れた藍色は、見る間に崩れて散っていく。命さながらあっけなく。
 せめて最期に夢だけは魅せてあげよう。あなたの底に根付くものを見てみぬふりをした贖罪代わりに。
 失われていく義兄の命を吸いとるかのように、唇を重ね、その歪んだ愛に応える。これまでのすべてを謝罪しよう。あなたの命を無為にしないためにも、私は謝らなければいけない。
 あなたまで、いなくなったら。
 不意に熱いものが頬を伝って、彼の銀糸の髪に水滴を煌かせた。どろりと崩れた藍色が最期に見たものはなんだったのだろうか。
「シャルロット」
 私の家族が、この世を去る。
 耳が、痛かった。
「キャロラインは生け捕りに。あとは殺しなさい」
 女たちの悲鳴が聞き苦しい。騒がしすぎて吐き気さえ催した。唇が震える。そっと立ち上がり、外で待っている兵士たちに合図をしたあと、唇に触れればほのかに彼の温もりが痺れた指をあたためた。唇だけですらなく、指先までも滑稽なほどに笑っていた。その震えを抑えようと手を握り締める。行かなければ。もう、ここにいる理由などない。
 顔を上げて歩き出す。向けられる銃口や鋼などに恐怖を抱くはずもなかった。空気を鋭く裂く音がその場に溢れ、女たちの声量は段違いに跳ね上がる。液体が跳ねる音を背後に聞きながら邸を出ようとすれば、扉の前に一人こちらを見て立ちすくむ女の姿が目に入った。ああ、なんてひどい顔をしているのかしら。
 女の姿はあまりにも無様だった。震える手で握り締めるは、何の変哲もないナイフ。それをまっすぐに私に向けて、そしてどうしようというのだろう? 人を殺したこともないただの女中が、シェルマの時分からして既に戦場に出ていた私を殺す? やれるものならばいくらでも殺せばいい、ふとそう思う。
「とまって!」
 か細い声を聞きとめるはずもなく、すたすたと歩み寄る。まっすぐに彼女の目を捉えたまま突き進めば、やがてベアトリチェは本格的に恐怖を覚えたようにがたがたと震えだした。ぼろぼろと涙を流したままくすんだ青の視線を私に向けて、どうしようもなく崩れ落ちる。その姿を捉えきるまでもなく、ただその横を過ぎ去れば、一つ落ちていった言葉。
「兄、様」
 目を見開く。そして振り返ろうとする自身を必死に押さえ込み、何も聞こえなかったかのように扉を抜けた。背後から聞こえるのは、抵抗を許さぬ虐殺の音。私が王であり、王であるからこそ行える罪の音。そこに混じるのは、異父兄を慕っていた女中の泣き叫ぶ声だった。
「キャロライン。あなたは、どこまでも下衆な人間ね」
 吐き捨てずにはいられなかった。男を食らう魔性の女。おそらくこの城に出入りしているトルスの貴族とでも契ったのだろう。生まれた娘を女中としてその身分違いも甚だしい兄の側に置くなど、下衆以外の何者でもない。
 でも、それももはや関係のないことだった。すべては過ぎ去ってしまったこと。残る私恨は何があっても消し去らねばならない。私ではなく、彼女が統治するこの国のために。

 城の前まで歩き続けていれば、ふとそこに影が落ちていることに気がついた。見慣れたシルエットに強張っていた体の力が抜けていく。けれども立ち止まらずに彼すらも過ぎ去ろうとすれば、ぐいと手首を掴んで動きを止められた。
「へい、か」
「離しなさい、ウィル」
「陛下! 何故、あのようなことを」
 責めるような口調に笑いそうになった。昔は、こんな風に笑っていたのだっけ。可笑しいから笑う、ただそれだけのことが、今はどうしたってできやしない。作り出すのは嘘に塗れた笑顔だけだ。
 そんな歪んだ顔で振り返る。対峙した翡翠は息を呑み、そしてそこに憂いを落とした。あなたがそんな顔をする必要なんてないのに。これは私が決めたこと。私がやらなければいけないこと。
「ウィル。フィシュ国に手紙は送れたの」
「……はい」
「そう。ならば下がりなさい。これは」
 何か言いたげに口を開いた彼を遮るようにして、語気すらも荒く言い放つ。
「あなたにはなんら関係のないことよ」
 そしてその言葉が終わると同時に、ずっと後方から聞こえてくる爆発音。突風が吹きつける中、私と彼の視線は絡まったまま離れることはなかった。彼女が現れて、ウィルの手を私から引き離すまでは。
 その瞬間、私は彼女へと目を向ける。そして、そのままもう二度と。
「行きましょう、シャルロット。あなたにはまだやるべきことが残っているのだから」
「はい、叔母様」
 振り返ることはなかった。