誰もが、言葉を失った。その場にいる者すべてが動かない。ただ凍りついたように彼を見るだけ。私の最後の兄である彼を、愛しい彼らの王子様を、見つめているだけ。
一度、まぶたを閉じる。嘘であってほしかった、そんな甘い期待を無理やりに押し込めるために、私は静かに呼吸をする。薄い息。不意にそれが、実兄の咳に聞こえて、ずきりと痛みとともに憎しみが膨れ上がる。どうしてあなたが殺すの。あんなにも私たちを愛してくれた人なのに。あんなにも護ってくれた人なのに。
ゆっくりと目を開ける。静かな藍色の眼と相対した。このふざけた悲劇が終わる頃には、二度と開かなくなっているのだろう、その目と。
「おかしいな、君には絶対に気づかれないはずだったんだけれど。どこで僕は間違えたのかな」
穏やかな声が耳に心地よく響く。それを苦しく感じながら黙り込む。立ち尽くしたまま動くことなく彼だけを見つめ。
ベアードはカップを卓上に置くと、椅子にゆっくりと身をもたれかける。その不遜めいた態度とは裏腹に、青年の顔は暗く翳っていた。それなのに響く声はどこまでも穏やかに落ち着いており、それが余計ずきりと胸を痛ませる。
「そう、僕が殺したんだ、シャルロット。君が求めているのはそこにいたるまでの経緯かな? なら少し長い話をしようか。座るといい。君を傷つける者はどこにもいない」
応えるようにしてうなずき、西を向いて腰掛ける。それを一瞥した義兄は緩やかに微笑んだ。猫のように目を細め、今にも喉からごろごろと満足げな声が聞こえてきそうな、優しい表情。
「兄さんもそうだった。僕や母さんの右には決して座らなかったね。それがどうしてか、長い間不思議だったんだ」
つぶやくような言葉が紡ぐ内容は、高位にあるイチェリナ国民なら誰もが知っていることだった。
魔力のない者を右側に座らせると、その力を奪われる。
本当なのかどうかすら定かではないそれは、けれど魔力研究第一人者であるティフィト家によって事実であると証明された。無論トルス帝国には知らされておらず、高名な魔導師たちだけがそれを承知している。城に入ればそれはよりはっきりと区別されており、魔導師の塔にはトルスの民は入ることすら許されない。
馬鹿げた話だ。以前ならそうわり切ってしまえたが、ティフィト家のあの長がいうのであれば、それは紛れもない事実。それを調査させた人間が父であるというのもまた、皮肉な話だった。
私が察したことに気づいたのか、彼は目元を綻ばせて笑みを深めた。
「もちろん、それが憎かっただなんてふざけた話じゃないよ。僕は、本当に彼を慕っていたからね。君もわかるだろう?」
わからないわけがない。
レティリアは父と同じ血を継いでいるだけはある、トルス帝国という国そのものを嫌悪していた。ベアードが現れる度にちょっかいをかけていじめるのを、毎回とめるのはいつも兄の役割だった。私やウィルはそれがどういう意味なのかほぼわからないまま、年の近いベアードの側についたり、レティリアの側についたりして遊んでいた。王族の子供たちの遊びは、けれど明らかな差別の世界でもあった。
そしてそれをいつでも軽々と飛び越える兄。
慕っていたなら、どうして殺してしまえるの。鈍く渦巻く激情を必死に押し殺しながら彼を見やる。その鋭い視線を受けていながら、義兄は微笑みを崩しはしなかった。影を纏う重い微笑みを。
「僕は、憎かったんだよ。
どうして君ほど賢い子がわからないんだろうね。僕は憎んでいたんだよ、君たちを。イチェリナ皇国という、大陸を統べる覇者の直系に生まれ、それを謳歌し生きる君たちを。僕のような半端者では、決して手の届かないところにいる君たちを。
もちろん憎むなんて逆恨みだ。君たちは何も悪くない。こうやって生まれてきたことを僕は甘受するしかできない。ましてやあの兄さんを殺したいほど憎むなんてもってのほかだ。僕は、君たちを憎む以上に憎んでいるものがあった。さあ賢い君に謎々だ。僕が、本当に憎んでいるものは何だろう?」
憎んでいる。
それは、今も。今もはっきりと憎しみを持ち続けている? その目を見れば答えは明らかだった。彼の中の憎悪は、今にも溢れ出しそうに煮えたぎっている。どうして、今まで気がつかなかったのだろう。彼の中のこの暗く重いどろどろの感情に。どうして。
「義兄様あなたは、あなたは、まさかご自身を」
彼の笑みが深まった。それが紛れもない事実だと雄弁に告げていた。理解が、できなかった。
目を細め、白い指先をそっと伸ばしたり、縮めたり。私すら見なくなった瞳は、ただ自分の身体を憎々しげに見ていた。まるで、これがこの世にあることが許せないといわんばかりに。
「自分を憎む、なんてことはいわないよ。ただね、僕をこの世に生んだ男が嫌いだ。僕という人間を作り出すのに加担した、母さんも嫌いだよ。もちろん承知しているとは思うけど」
びくりと視界の隅で女の細い肩が震えたような気がした。それをなかったことにし、振り返ることはしない。ただ目の前に座る気まぐれな義兄を見つめる。
「でもやっぱり、一番憎いのはね、シャルロット。父さんだよ。いずれ母さんと一緒に殺されることだってわかっていた。それならもう二度とあの男には期待しないでいようと考えて、実際に僕はそうしていたつもりだったんだ。でも、違った。愚かだよ、とても。
君はもう覚えていないかな。僕にはジゼルが与えられた。ジゼルの少年だよ。僕よりいくつか上の優しい人だった。兄さんと同じくらいに優しくて大好きだった。でも、最終的にあの男はさ、それすらも奪っていった。僕の大切な友人を、何の躊躇いもなく」
「それは、彼がジゼルとしての本能が戻ったからでは」
「ねえシャルロット、君は本当にそうだと思うのかい? 君はそこまで愚鈍じゃないだろう?」
鋭い声がびしりと耳を打つ。いつの間にか伏せていた眼をそっと彼のもとに向ければ、はっきりとした侮蔑の視線が迎え撃った。今までにないほど彼の藍色ははっきりと怒りを表していた。
「確かに君はその場にいなかったね。ならばわからなくとも当然かもしれない。でもね、シャルロット。君だって、本当はわかっているはずだ。彼の業を背負わされた人間として、そこでそうやって座っているのも、すべて。
彼のおかげ、いや、彼のせいだということを」
息を呑む。その言葉の意図は何? 何を私から聞きだそうとしているの?
どうしてその事実を、あなたが知らないはずのそれを、知っている?
そのとき、彼はようやく心からの笑みを浮かべた。私の顔を見て、そこに映る偽物の表情ではない動揺を確認したとき、ふわりと花開くように。
わずかに開かれた唇から、漏れたものは、言葉と赤。
「知らないとでも、思ったのかい? ねえ、シャルロット。愚かで愛しい僕の義妹。
君が終わらせることなんて、わかっていたよ」