第三部 に落ちた彼と六花を願う

六章 トルスの狂騒

06

 その場にいた誰もが息を呑んだように思う。私が尋ねた問いは、この邸の人間なら誰もが知っている事実。それを本城に住まう私が知らないのは当然で、だからいずれ問われるだろうこともわかっていたはずだ。
 目の前にいる彼も、同じように息を呑んでいた。その藍色の眼が揺れる。それを、私は怯えることもなく、口元に浮かんだはずの笑みさえも失せ、ただ見つめていた。彼の口から、彼の目から、答えを聞き出そうと。真実を引き出そうと。
 震える唇が、何か言葉を吐き出そうとした瞬間、女の声が耳を貫いた。
「何を、根拠もない馬鹿なことを口にしているの! 女王ともあろう者が根も葉もない甘言に騙され、あまつさえトルスの義兄にそんな言葉を吐くなんて、よほど愚王になることがお望みのようね!」
「義母様、お忘れなく。トルス帝国は第三位国。あなたがたが私と口をきけるのも、父があなたを娶ったからでしょう。正妃でもないくせに世迷いごとしか吐けぬその嘴を突っ込むのは、おやめになられたほうが身のためだと存じますが」
 淀みなく吐き捨てて義兄から身を離す。卓の前に立てば、怯えたような眼差しが四方から飛んできた。そう、本来ならトルスという国ですら、私と対等ではありえない。
 アルダというこの世界には序列が存在する。巨大な国しか存在しえないからこその、破ってはいけない圧倒的身分。ただしそれを行使できるのは、各国の王族だけであり、平民たちはその序列の存在すら知らないのが通常だ。
 そして唯一この場でその力を行使できるのが私。本家の血筋を穢れることなく受け継いできたからこそ、この小さな城を支配できるのは、あの女でもなく彼でもなく、私。
 けれど義兄は一度開いた口元は、ふわりと閉ざされてしまった。それに悲しい失望を覚えながら、緩やかに笑い、ゆっくりと卓のまわりを歩き出す。それはさながら飢えた豹のように、ただうろうろと。
「本当は私も信じたくありません。けれど、でも義兄様、あなたしかいないの。あなたしか兄様を殺して得がある人なんていないのよ。だってそうでしょう? レティリア叔母様なら兄様だけでなく、兄様のことにまで注意を払っている疑り深い私がいるのだもの、そんな危険は冒さないわ。そんなことをするとしたら、何も知られされていない義兄様だけしかいない。違うかしら?」
「どうして? もしあなたのその言葉通りなら、疑り深いあなたを、この子がどうやって欺いたっていうのよ? そんなこと、この子にできるわけがないでしょう?」
 なぜならあなたを愛しているのだから。
 もはや公然と放たれた言葉に動じる者は誰もいない。お優しい義母様は、義兄の禁じられた愛情を臣下に教えてさしあげたらしい。義兄ですらあの女に一瞬侮蔑のこもった眼差しを向けていた。
 穏やかに上座に座る女を見上げ、卓上にある葡萄の一粒を手に取った。そっとその薄い皮を撫で、爪を立てて引き裂く。溢れる果汁を放置したまま、それを銀の皿に落とした。つぶれたような音が耳に痛い。
「どうして? 逆にわかりませんわ、義母様。義兄様は私を愛してくださっている。それが真か否かには興味はございませんが、むしろ義兄様が私をそのように想ってくださるなら、兄様は邪魔でしょう? いえ、それくらいのこと、義兄様なら私のためによかれと思ってしてくださるでしょう?」
 兄がいれば、私は一生即位できない。
 それはあの状態を知っている者なら誰もがわかることだった。兄がもしも短命と噂されるような人間でなければ、私はおそらく他国へと嫁がされていただろう。そしてその国で押しつぶされるようにして死んでいった。私はそれほど強くはない。つまらない女同士の争いごとに巻き込まれ、抵抗さえせずに、兄の統治するすばらしい国を横目に、死んでいったはずなのだ。
 兄ならば、この国を混迷へといざなうこともなく、父の願いを知りながら、それを成さずして物事を平和に済ませていたのだろう。誰もできぬようなことを成しえるあの人ならば。
 それでも兄はここにいない。彼は死んだ。死んでしまった。
 ならば、父の残した呪いを引き継がず、私たちがその業を背負わずして生きることは許されない。私のやるべきことはもう決まっている。あの十五年前の悪夢から決められた、私の宿命。
 果汁の滴る指先をそっと舐め、ゆっくりと義兄へと眼差しを向ける。何も知らない彼。何も知らないはずの、けれどその一部に知らぬ間に加担していた、哀れな人。
 あなたも、父の呪いからは逃れられない。
「あなたは、私のためと思って、私の兄様を殺したのではなくて? 義兄様、知ってらっしゃいますか? 我が兄上の死因は心臓に大きな負担をかけたことです。それも短時間のうちに鋭く、何度も。ただの発作ならば、そうはならないでしょう。義兄様は兄様の遺体をご覧になりましたか? 彼が死んでいく様を、ご覧になりましたか?」
 衰弱していく体。発作の度に身体は震え、開かれた眼が苦痛を訴え、引きつった表情からは言葉にならぬ絶叫を聞く。
 あの眠れない数日間。
 ずっとそばにいて、見守り続けた私と、兄の婚約者。そういえば、あの人は今なお行方が知れないのだった。兄をずっと慕い続けてくれた愛しい人。最後に会ったとき、彼女は律儀に黒の喪服に身を包み、黒いベールの下、密やかに微笑んでこういったのだ。
(私は、あの人を愛し続けます)
 ならば私は。
 兄を殺した犯人を、殺してやろう。
「ねえ義兄様、どうして私を見ないのですか? どうして目を背けになるの? それは、何か後ろ暗いところがあるからではなくって?」
 視線を背けたままの義兄に、卓の向こうから詰め寄れば、ついに耐え切れぬとばかりにキャロラインが逆上して叫ぶ。その甲高い声は乱暴に耳を貫いた。
「ふざけるのも大概になさい!! どこに証拠があるっていうの!? 何もわかっていない子供のくせに!」
 鋭い音がして彼女の白い手が近くの卓上のものを叩き落とす。食器は乱雑に砕け散り、びしゃりと液体が零れおち、大理石の床を汚した。その紫の液体の流れいく先に立つのは、一人の女中。
 彼女は怯えたようにキャロラインを見つめたあと、持っていたトレイをそっと卓上に乗せる。ベアトリツェは、震える声でいった。
「ラッチェルを、お持ちしました」
 ありがとう、そういって受け取ったのは、私ではなく、義兄だった。
 注ぎこまれた湯気の立ち上るそれを、わずかに口に含み、私の目をはっきりと見返した彼は。
 その口で、
 真実を。
「そうだよ、ロッティ。僕が、殺した」
 紡ぐ。