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その笑みを乱雑に跳ね除けるようにしてキャロラインは豪奢な椅子から立ち上がった。トルス人特有の不健康な肌の色と、着飾る紫が相まっていっそ物寂しいほどやせ細って見えた。
「……殺しなさい。殺すの、殺すのよ、トルスの兵士たち!」
彼女がうなるように零した言葉に、兵士はびくりと身体を震わせた。戸惑うような視線が、ヒステリックに叫ぶ女と私の間を行き交う。けれど、誰も動かない。
「なぜ、どうして? 殺せといっているでしょう!!」
「見苦しい。兵士よ、武器を収めよ」
やんわりと微笑んで刃先を手で避ける。剣を握り締めてできた肉刺すらも、潰れている白い手に、赤いものがするりと垂れた。それを見て、兵士たちは戸惑いを隠せぬまま武器を下ろす。誰も、何が起こったのか理解できていないようだった。
「ベアトリチェ、ラッチェルを淹れて差し上げなさい」
静かに名前を呼んで、名指しされた侍女はばっと顔を跳ね上げた。困惑を隠しきれぬ表情のまま、私を見、そして隣の主人を見、その身を翻す。忠実に与えられた仕事をしにいくのだろう。
それでいい。この事件のことは誰もなかったことにすればいい。
「さあキャロライン。お座りなさい。話をしましょう。義兄様も、座ってください」
そうどこか笑いを含んだ声で促す。ベアードは一瞬躊躇ったあと、静かに私の隣に腰掛けた。兵士たちも彼の様子を見て無言で下がる。捕らえられた従者や侍女たちを放してくれたようだった。甘いことだ。
さあ、といいたげに立ち尽くす女を見やる。彼女は今何を悟ったのだろう。
蒼白な顔に浮かぶのは、言いようのない畏れと怒りだった。
「座ってください、キャロライン。私はあなたを害するつもりはありません」
そも、害するつもりがあれば既に彼女は死んでいるはずだ。どうにか残った理性でそれを理解したのか、彼女はきっと唇を引き結び、椅子に座り込む。
目だけが異様に輝く、いかれた女がそこにはいた。
向けられる異様な光をものともせずに、ただ無言で彼女と相対する。なんといわれようがこの女は敵ではない。ただの、何もできない女なのだ。
「シャルロット、聞いてもいいかな?」
沈黙が耐えられなかったのか、ベアードが声を上げた。彼を見やれば、心底わからないといいたげにその瞳を揺らしていた。頷きながら問いを促す。
「ウィルヘルムは、死んだのかい?」
言葉を連ねるのを一瞬躊躇う。どこまで話せばいいのだろう。どこまで、言葉を揺らせばいいのだろう。
その沈黙を痛みだと察したのか、彼は痛ましげな眼差しを私に向けた。そこに潜むのは、本当の慰め? 違うだろう。彼が望むのは、自惚れでもなんでもなく、私だから。
「ええ、亡くなりました。フィシュ国に連絡せねばならないことがあって、彼を立たせた数日後、これが送り届けられました」
そっと、赤いリボンを撫ぜる。
メアリ。
今まで忘れたふりをしてきた名前を、今一度はっきりと胸の内で呼んだ。都合のいいときだけ頼る私を、あなたは許してくれるのかしら。
跳ねる赤。脳裏に浮かんだそれを、払拭する術を知らない私は、ただ笑う。
許してくれなくて、いい。許さないで。憎んでくれれば、いいの。
どうか、メアリ。護ってください。
「でも、それは死んだ証拠にはならないよ。君らしくもない」
信じられないといいたげな言葉にふ、と笑みがこぼれそうになった。ベアードの目を見て、無造作に笑う。まるで、大したことのないように。その心中を推し量らせないための、嘘の笑みを。
「義兄様、どうして私がウィルのことをそこまで待たなければいけないのですか? 彼はもう、どこにもいない。それが事実です。たかが従者にどうして私が愛着を抱かなければいけない?」
彼は知っている。私がウィルのために払った犠牲の断片を。あの当時から城に仕えていたものは、皆が知っているといっても過言ではない。だからこその、この言葉。
藍色の瞳が、驚愕で見開かれる。彼の薄い唇が、わなわなと震えた。それは怯えとも違う、喜びとも違う。ただ信じられないものを聞いたように、震えていた。それを冷たい眼で睥睨し、なにというでもなく微笑む。
「それに、義兄様。あなたが教えてくださったのではないですか。彼が偽者だって。昔の、私の本当のウィルヘルムは死んでしまったって。そうでしょう?」
首をかしげ、少女のように甘い笑みを浮かべながら、尋ねる言葉。ベアードはその言葉に息を呑んだ。藍の瞳、うっすらと透ける紫は、わずかに震えた。そこに走るのは怯え。
そう、あなたが気がつかなければ、誰が気がつくというの? あの女は知らない。この会話の意味の断片しか理解していないはずだ。だから、気がつくべきは、あなた。
私が狂っていると、知るのはあなた一人でしょう。
唇が開き、何か言葉を漏らすよりも早く、私は彼にそっと寄りかかる。疲れたといいたげに、まるでどこぞの汚らしい娼婦のように。ちらりと奥に座る女を見やれば、怒りで顔を赤く染め上げていた。分別もわからない子供のように思う。なんて哀れな人なのだろう。
「女王陛下、あなた何を――」
「ロッティ? どうしたんだい? ウィルは、違う、それは」
女の言葉さえ遮って、隣に座る男は私の肩を掴んで引き離す。かくりと落ちた首を、上げて、見つめる瞳に映るのは。
きっと、偽りの涙。
「違う? いいえ、何も違いありませんわ。ウィルは死んだ。遠い異国の地で嬲られて。私があの日のことを忘れたとでもお思いですか? 戻ってこない彼を想って泣いたことを、私が忘れるとでも? 私はウィルを間違えない。あの子は、もう、どこにもいないのよ。あの一族と共に、もうどこにもいなくなってしまった! 信じていたの、信じていたのよ。
なのに、お父様が私に与えたものは偽りだった! どうして、どうして! もう、どこにもいないのに――、どうしてみんな嘘を吐くの? どうして、本当のウィルのことを教えてくれなかったのよ? どうして!」
いっそ馬鹿らしいほど彼に迫る。ぼろぼろと零れていく涙が、頬を伝い落ちた。ベアードにすがりつくようにして、涙を流す。偽りの涙は、こうも簡単に流れてくれるものなのか。
もしかしたら、偽りではないからかも、しれないのだけれど。
優しく私の背を撫ぜる暖かい義兄の手に、心だけが静かに凪いでいく。小さく言葉を落とした。
「兄様も、そうだった。私を慰めてくれた。ねえ、でも義兄様。あなたなら教えてくれるでしょう? 本当のことを。ウィルが偽者だって教えてくれた義兄様なら。
――あなたが、兄様を殺したの?」