第三部 に落ちた彼と六花を願う

六章 トルスの狂騒

04

 誰もが知っている伝説の一欠けらがある。
 トルス帝国には、魔力がない。
 なぜならそれは、遥か昔イエラ・イチェリナを裏切ったから。
 だから彼女は天から与えられた魔力を、元より祝福されし明志国以外の六つの国に平等に分け与えた。どれほど心優しい英雄であっても、トルスを許すことはなかった。
 子供にトルス帝国のことを尋ねると、彼らは皆一様に無垢な表情をして語る。あの国はね、魔法が使えないんだよ。どうしてかって? だってトルスはイエラを裏切ったんだ。だから魔力を、祝福を得られなかった。
 彼らの語るその伝説には何一つ偽りがないとされている。トルス帝国の祖となった男は、最後の最期まで狂王に加担し、そしていざ自身が狂王の手にかかりそうになってようやく正気を取り戻して、イエラに保護を求めたという。イエラは彼が率いる民すべてを慈悲から救い、狂王の軍勢をじわりじわりと追い詰めた。しかしあるときトルスの一族は姿を消し、再びイエラと見えたとき彼らは狂王のもとで朽ちていた。イエラは嘆き悲しんだが、彼女の部下はトルスの持つものに目を留めた。
 それこそ、狂王の狂王たる由縁。
 何よりも誰よりも強い魔力の込められた、
 紅き眼球を。
 そして彼の真意は闇に呑まれ朽ち果て、人々は彼を裏切り者と呼んだのだ。
 可笑しな話だと思う。トルスの祖はもう既に死んでいて、それなら彼の行った過ちを二度と繰り返さないためにも、新しい魔力を授け、一からやり直すことを選択させればよかったのに。けれど彼女はそうしなかった。魔力を授けないことで自らが憎まれることを選んだ。
 そう、トルスの民は、イエラ・イチェリナという世界の英雄を、誰よりも憎んでいる。
 魔法の使えない国。何をするにもすべて手ずから行うしかならない不便な国。あの国の国境だけはどんな者でも入れば必ず分かる。入った途端、魔力が霧散し消えていくのを感じるからだ。かの国だけは、だから暗黒時代を除くほぼすべて、領土が変わらない。
 その中で、ごく稀に魔力を持って生まれてくる子供がいる。彼らは皆紅い眼を持って高い魔力を秘めて生まれてくるのだ。イチェリナでジゼルという蔑称で呼ばれ、裏切り者の国トルスですらグレーテルというかの国の蔑称で呼ばれ、彼らは皆憎まれ迫害されながら生きていた。
 父が何を考えていたのかは、知らない。
 わかるのは、ベアードに手を与え、そして熟した瞬間切り落としたことだった。
 彼はベアードという弱者に、強者を統べる力を獲得させようとしたのか、ジゼルを一人ベアードに与えた。ジゼルである少年は既に父によってある程度の教育は施されていたようだが、問題はジゼルとしての本能のほうだったという。つまり父は彼の本能を躾けなかった。そこをベアードという圧倒的弱者が教えよというのだから呆れてしまう。
 ベアードより四つも年上の少年だったが、彼は元から温和な性格の持ち主だったらしく、すぐに年下の主人に慣れたという。兄が弟を見守るようにして常に他者から見えぬ位置で、彼を護り続けていた。ジゼルとしての能力も、主人であるベアードのいうことを時折破ったりしながらも滅多に使うことはなかった。
 恐ろしいはずの紅い眼が、彼のものだと思えば怖くなかったと、義兄はいつか話してくれたことがある。
 あとから聞いた話だと私は一度会ったことがあり、彼に頭を撫でてもらったこともあるようだが、一切覚えていなかった。それも私が四歳のときだったというのだから当然かもしれないが。
 ただ、少しだけ、覚えているのは。
 きっと、君は素晴らしい女王になるんでしょうね。
 その切ない響きを帯びた声と、おそらく彼の大きな手だった。
 私が自我を得るより早く、彼は首を刎ねられた。この国に存在したジゼルという悪夢を、通例に従って。そも、存在してはいけない「夢」なのだといわんばかりに。
 義兄の初めてできた大切な夢という存在を、与えたはずの男は彼の目の前で自ら摘み取ったのだ。笑ってしまえるほど滑稽だった。義兄は父を責めなかった。目の前の惨劇が終わっても、言葉一つ漏らさずにただ返り血を浴びた父を見ていた。父もまた、いずれ同じように死ぬ息子を物言わぬ眼で見つめていた。
 あの親子がはっきりと視線を交し合ったのは、そのときが初めてだったらしい。
 長い長い昔話だ。遥か昔の出来事は、今も私たちを苦しめる。それは私たちが望むからか。何度でも同じ悪夢に手を伸ばすことを。
 何度でも、反旗を翻すのは。
「女王陛下。あなた、その赤いリボンはどうしたのかしら」
 降り積もった沈黙を、赤い唇が乱暴に破る。うっすらと瞼を開けて女を柔らかく見上げれば、彼女はまるで親の仇でも見るかのように私を強く睨みつけていた。ぞくり、と背筋が震える。知らぬ間に私の唇はそっと笑みを刻んでいた。美しいものを愛でるかのような、背徳的な笑みを。
 かかった。
「確かそれは、あなたの愛らしい赤のものではなかった? あなたによって斬り捨てられたかあいらしい赤い少女の」
 嬲るような口調に吐き気を催しつつも、表情を変えることはない。ただ笑う。何も知らぬ愚かな女を嘲笑うようにして。
 す、と白の髪から垂れる一筋の赤を、柔らかく撫ぜて、目をうっすらと細めた。愛しい愛しい赤色。大切な二人の色を吸い込んだ、赤。
 目を上げて睨みつける女を見つめ、優しくまるで慈愛に満ちた賢母のように微笑んだ。
「ええ、そうですわ。可愛いあの子と、そして私の従者のものでした。もう、二人ともどこにもいないけれど」
 隣でベアードが動揺で身体をわずかに震わせた。けれど私はそれに気をかける余裕などない。上座に座る女の一挙一動を見逃すまいと、緊張していた。
 女の夕闇の眼が、静かに見開かれた。
「いない……? どこにもいないと仰った?」
「ウィルは亡くなりました」
 簡潔に答える。それが事実かを知るものなどこの館には誰一人存在しない。私が連れてきた従者や侍女たちですら、彼をここ数日見ていないのだから当然だ。ましてずっとこの邸で暮らしていた女中や従者、兵士たちにわかるはずもなく。
 彼らは皆、痛いほどの緊張を私に向けて突きつけていた。
「それでは、あなたがつけているそれは、弔いのため? 式さえもしてやらなかったのかしら?」
「ええ。式など従者には必要ないでしょう。彼には遺族も存在しませんから」
 不意に女の笑みががらりと変わる。咄嗟に立ち上がろうとした義兄の服を掴んでとめた。向けられる多数の刃先。考えることは同じだろう。ベアードの焦燥を滲ませた眼差しに、柔らかく笑いながら応えた。動くな、と。
「どういうおつもりですか、お義母様」
「あなたこそ、どういうつもりなのかしら。ベアード、こちらへいらっしゃい」
「キャロライン」
 はっきりと強く名前を呼びつける。背後で私が連れてきた従者たちが捕らえられるのは聞いていた。が、その言葉に、その場にいた人間すべてが動きを止める。
 見開かれた藍色をねめつけて、鮮やかに笑う。
「私はあなたと会話をしにきた。武器を収めなさい」