第三部 に落ちた彼と六花を願う

六章 トルスの狂騒

03

 イチェリナから見てトルスは丁度南西に位置し、城内にあるトルス親子に与えられた館も同じように主城の南西の方に存在した。かの国らしいアンゼル様式の施された大理石の城は、訪れた本当の主人を歓迎していないように映る。
 イチェリナ国の後宮は他所の国とは少し趣が異なる。他国からくる姫君たちに少しでも母国の匂いを感じるよう、各国の城と相似した館を提供するのだ。つまり国に合わせ、七つの館が主城の側に寄り添うように存在する。事実一際文化の違う、明志国とリヴィライナの館は見るからに異国然としていて、目を楽しませてくれた。
 そうやってまるでなんてことのないように目元をわずか綻ばせている私を、連れそう侍女と従者は不安そうに窺っていることには気づいていた。確かに私は少しだけ意識が高揚している。
 主城を取り巻くように並び立つ七つの館。その中で人気があるのはトルス親子の邸であるイレード邸だけだった。
「ようこそ、女王陛下。わが君がお待ちしております」
 折り目正しく礼をした女中たちを一瞥し、知らず唇の端を吊り上げていた。
 いつもなら隣にいるはずの琥珀の髪の従者もいない。手には何一つ持たず、今側付きになっている侍女たちも皆、ベアードによって手配された人材だ。まさに、敵陣にただ一人送り込まれた使者のよう。
 けれど私は彼らとは違う。武器一つ持たずとも、私の願いは叶えられる。
 それは私が王だからではない。
 この場にいる女中たちが誰一人として私を王と認めてもいないのに、王だと名乗るのは馬鹿げている。彼らの王は、主人はあくまであの女。私とは比べ物にならないほど美しく、そして腐った華やかな枯れ薔薇だ。その腐敗に気がつく人間など義兄しかおらず、彼の言葉を碌に聞かぬ彼女は、何もわからないまますべてを失っていく。
 ねえ、お義母様。
 柔らかな羽毛のソファに身を預ける、老いてもなお美しい女を、ゆっくりと見上げながら笑おう。
 二年の月日が過ぎ去るうちに習得した欺瞞するための笑顔に、女は目を見開いてそうして笑った。深い藍色の扇をひらりと仰ぎ、一瞬歪められた唇は隠される。女の隣でまるで使用人のように立ち尽くす愛すべき義兄もまた、信じられぬものを見たかのように目を見開いていた。
「御機嫌よう、お義母様、義兄様。訪問を許可していただき真にありがとうございます」
 私は、あなたからきっとすべてを奪い取ろう。
 名前と、そして狂えるだけの命を残して。
 その言葉の裏に秘められた意味に気づいたのか否か、彼女は微塵も動揺を見せずに鷹揚に頷いた。城のそのちっぽけな帝国に相応しい主たる様で。
 愚かな人。
「あなたが応じてくれたことがあたくしとしては驚きだわ、女王陛下。こんな何にもないような邸にお越しくださるなんて、王のすべきことではないでしょう?」
「お忘れですか。ここは後宮。王が足を向けるのは当然でしょう」
「あたくしを召されたのはあなたではないでしょう、可愛い子。あたくしを祖国に帰してくだすって構わないのよ」
 帰せ、と告げる言葉はトルスらしくいかにも回りくどい。あの女が散々差し向けてきた男たちそのものだ。脳のない言葉。父が何故この女を選んだのかつくづく疑問を覚えてはいたが、今日このとき理解した。これほどまでに愚かなら、利用価値は跳ね上がる。
 義母の数多い兄弟たちは骨肉の醜い争いを行って、義母同様第六妃の腹から生まれた彼女の兄が、帝の冠を抱いた。それ以外の王子たちは皆、粛清の名のもとに無残にも切り捨てられ、かの帝は第六妃以外すべての後宮に住まう女を殺した。二人の年上の姉たちは、先代帝の宰相などのようなことをしていたが、賢く聡明であったという。決して深い関わりがあったわけではないが、その高名さはイチェリナにまで届いていた。
 二人とも、義母の兄の手によって、切り捨てられてしまったが。
 これほどまでに愚かな国は知らない。まだ、まだ彼女たちが生きてさえいれば、どちらかが帝位を継いだのであれば、これほどまでに国が傾き、フィントールから抜けるという誤りを行うことなどなかったはずなのに。イチェリナやフィシュ、リヴィライナなどの強国とも良好とはいえないが、賢い国交を開けたはずなのに。
 一度だけフィントールで会った彼女たちを思い出す。今目の前に座り、愚かな報せを鵜呑みにするような女とは、何一つ違っていた。
 ただ変わらないのは、紫の混じる藍。
 義兄をひどく愛しく思えるのは、おそらくこんなどうしようもない女の腹から生まれてしまったことに、私が憐れみを抱いているからだ。
「ご冗談を。あなたをどうして私が手放すとお思いですか」
 少しだけ口角を吊り上げて意識して笑う。与えられた椅子に腰を下ろし悠然と女を見据えれば、苛立ちのこもった眼が見返してきた。分かりやすく、つまらない女。
 すっきりと頭が冴えていた。何もかもを、自らの力で噴き壊せるような気さえした。積み上げてきたものを、わざとぐちゃぐちゃに踏み潰して破壊したくなるような衝動が、身を焦がす。
 ただ、この機会をずっと待っていたからなのだろうけれど。
「あたくしがわからないのは、あなたがどうして用もないあたくしをこの国に引き止めているのかということよ。あたくしやこの子がいたところで何にもならないということは、賢く愛しいあなたなら分かっているでしょうに。あの人はあたくしを知らないのだから、枷にも人質にもならないわ」
 何にもわからないのに知ったような口を聞くのは可笑しかった。ベアードが一瞬実母を軽蔑の混じった眼差しで見ていたが、女はそれにすら気づかない。
「勿論です、お義母様。あなたはトルスの枷にすらなりません。他国に嫁いだ姫君ですもの、枷となるのはあなたの愛国心だけ」
 努めて厭らしく聞こえるように言葉を紡ぎ、口元には甘い笑みを載せる。すべては彼女の切り札であるそれを持ち出すまで。けれど、その形相から既に女の限界が近いことはわかった。キャロラインが顔色を変え目を吊り上げて言葉を口走るよりも早く、立ち尽くす義兄に水を向けた。
「義兄様、お座りになられないのですか?」
 無邪気に何も考えていないように声を上げれば、一瞬当惑の眼差しがこちらを見やる。
「ありがとう、ロッティ。でも僕は」
 ちらりと隣に優雅に腰掛けている実母を見、苦笑しながら大仰に肩をすくめてみせた。
「母上の機嫌が直らない限り座るのが許されないんだ」
「馬鹿なことをいってないで座りなさい、ベアード。それに女王陛下に対してロッティなんて……、もうお飯事は終わったのよ。無礼だと自覚なさい」
 ぴりぴりとした鋭い義母の声が耳朶を打つ。いっそ笑い出したくなるほど彼女は簡単に罠にかかってくれる。
 やれやれとベアードは私に向けて片目を瞑って見せながら、義母の隣ではなく、私の隣に腰を下ろした。その様を見ていたキャロラインの眉が一瞬ぴくりと跳ね上がる。それを確認して言葉を堪えるのが辛くなった。
 あの女が愛するのは、己、引いては自国。そして自身に良く似た美しく愛しい子供。
 私の義兄。
 最初に義兄から彼を奪ったのはあの女だった。
 義母を生んだ第六妃は娼婦であったと聞く。彼女自身が後宮に上がってからはまるで別人のように楚々と過ごしていたようだが、その娘である義母は母の血を濃く継いだのか色情狂いだった。後宮から出ては城に住まう男どもに手を出していたという。
 ベアードがいつまでもいつまでも、フォエマの隣にいられないのは、醜い母が、彼の高貴な心を打ち砕いた事実があったからだ。女は息子の何よりも大切な人を犯した。
 だから彼は許さない。どうしても許せない。
 汚らわしい女の腹から生まれた自分が隣にいることを、許さないのだ。
 いっそ滑稽とでも映るその義兄の姿を、けれど私はとても美しく思う。美しくて、哀しい。
 そして、義兄から手をもぎ取ったのは、父だった。