第三部 に落ちた彼と六花を願う

六章 トルスの狂騒

02

 イチェリナ王家には秘するべき存在が、時折ふってわいたように生まれる。
 遥か昔、祖であるイエラは狂王を倒した。その際にかけられた呪いが、皮肉にも彼女が死んで数千年の時を経た今でも、彼女の子供たちである王家を蝕んでいた。呪いを発露した人間は、生れ落ちたその瞬間から王家としての資格を失い、誰も知らぬ遠い土地に送られて生きる。いやそれは幸運なほうで、ほとんどの名もない彼らは首を刎ねられた。
 本来なら存在するべきはずの人間の抹消。無論彼らをとりあげた乳母や出産に立ち会った人々も、同じく首を刎ねるのが普通だった。私と直接繋がりがあるわけではないが、父の曾祖母が生んだ一人の娘はまさにこの呪いを受けていたらしい。
 秘するべき王族。彼らは一様に鮮烈なまでの紅い眼を持ち、狂っていた。
 それだけなら、まだ怯える要素は少ないだろう。しかし彼らが安易に殺されるのは、彼らの血が原因だった。
 彼らの流す生き血に触れれば、狂気は感染する。理性など碌に持ち合わせなくなり、ただ狂気をその眼に宿し猛り狂う。人であろうとなかろうと感染した瞬間から、狂気と呪いは混ざり合い一気に溢れ出す。その激動の快楽の中、意志を保てる者など存在するはずもなく、再びそれらしき理性が戻った頃には、ばかげた表現だがまさに血の海しか残っていない。
 運よく理性をきちんと保てる人間であっても、ふとした瞬間に狂気が立ち上る。それを押さえ込める人間は、ひどく少なかった。
 その紅い眼の人間たちを、イチェリナの人々は蔑称を交えてこう呼んだ。
「紅い眼の、ジゼル?」
 会議で報告された言葉に小さく眉をしかめる。言葉の続きを促すように軍部総指揮官であるティシエ卿を見やれば、彼は大仰に肩をすくめてみせた。
「陛下もご存知でしょう。陛下がお生まれになる二世代前の方々の中に、一人だけ彼女が存在したことは。とうの昔に亡くなられてはいたのですが、厄介なことに子孫を残していたそうです。子供たちはいつの間にか野に放たれて、今頃になって仲間を増やし始めたようですね。今四卿も初め複数人に市井に向かうよう指示しました」
 子孫を残す?
 聞こえた言葉に今一度眉を顰める。起こり得ないはずのことだった。ジゼルが人と契ったなどということは、つまり。
 ふう、と溜息が漏れた。厄介なことだ。理性があり人間としての自我を持つジゼルの子供たちは、狂気を隠すことができる。一見人かそれか、分からないのだ。殺すはずだったのに、逆に彼らに取り込まれるなどということが起こってしまっただろう。
 もしも理性がきちんと確立し、自己という存在を認識しているようなジゼルであれば、それは大きな力と成り得る。他国にも時折生まれる彼らをもしも統御できるならば?
 何度か考えたことだ。しかしそれはできない。彼らの血に触れずして共に生きるなど不可能だ。幼い子供の時分であるならまだしも。
「そう。老師、いかがしましょうか」
 ジゼルに関しては詳しく知らされていない。兄が必死に隠そうとしてくれていた王家の暗部だからだろう。それでも一度現れてしまえば、私が動くのは必須だった。
 六人しかいない巨大な部屋の中、卓を挟んで向かいに座る老人の目を射抜く。彼はその皺まみれの顔をうっすらと歪ませて、さざめくような言葉を落とした。知らぬ間に、彼はどんどん老いていく。
「ひとまずそれでよろしいでしょう。四卿が出ているのならば、首都周辺は安泰。しかし彼女がいたのはフィシュ国のディエンダ諸島。そこから流れてくる子供たちまでは面倒が見切れますまい」
 フィシュ国。ふと泣きたいような寂しさに身が凍る。うっすらと笑って頷くに留めた。
「そちらは手配しておこう。被害は」
 その始末は私が行わなければいけない。兄から託された切り札も、もうその力は不要だった。
 以前に比べ格段に感情が表に出るようになった私を、今この場にいる臣下たちはどう思っているのだろう。のせた笑みはより色濃くなって、双眸が深みを増す。吊り上げるのではない超然たる笑みを受けて、ティシエ卿は一瞬視線を逸らした。
「甚大な被害は出ていませんが、ロートルド山脈の一部を塒にしているとの情報が。ガレスに向かわせましたが、危ないかもしれません」
「そう。確認しているだけで人数は」
「六名ほどだと」
 ジゼルの子供たちはお互いを認知することができるが、だからといって協力などするはずもない。しかし塒にしているという言葉通りなら、本格的に危険だ。ガレスの隊に向かわせたのならある程度の足止めにはなるだろうが、理性を保っているならばそれも容易く討ち破られるかもしれない。
 こんなときに。
 ぎり、と小さく歯が音を立てた。わずかに溢れた苛立ちを乱雑に振り払い、連絡がこないと動けない状況に陥ってしまったことを後悔する。もう少し計画をきちんと立てておくべきだったか。やはり、甘いなと嘆息した。
 父と兄。それと明らかに異質な私。
 彼らのように輝かしい功績を残さず、むしろ私は王としての存在を抹消されるだろう。国民からは憎まれて、人々はこう口にする。彼女こそがジゼルだったのではないか。
 ジゼルの名はその狂気を帯びた紅い眼の人々を指すと同時に、狂える女を示していた。
 すべては何のためかと問われたら、私は答えることができない。
 その問いに答えれば約束は無効となる。もう既に約束をした相手はこの世から去っているのに、私はそれを破ることができなかった。それはただ単に忠誠や恐怖ではなく、ただの思慕から。
 幼い私の想いを汲んでくれた人との約束を、破ることなどできなかった。
「ガレス卿に連絡を。戻れと」
「は?」
 ぽかんと口を開けた男を見やりもう一度言葉を繰り返す。ティシエ卿だけでなくその場にいた人間が目を見開いたのを感じたが、これから起こることを考えれば、それを始末するのは後回しにせざるをえないのだ。サルサが一瞬私の目を凝視し、理解したかのように浅く頷いた。
「戻れと連絡を。他の三人と合流するように。ジゼルのことはしばらく忘れてもらおう」
「な、何を仰っているんですか陛下? 確かに今キャシャラやトルスが不穏ですが、しかし」
「三度繰り返さなければ聞こえないのか。ガレス卿が行おうとしている討伐は、今は不要だ。それよりも彼は中心地にいてもらいたい。ティシエ卿、イエス以外は聞かない。わかりましたね」
 冷たい声音は意識するまでもなく喉から滑り落ちる。それを受けて、理解できないものを見るかのように、男は私を怯えたように見た。怯えるべき要素なんて一つもないというのに。
 嫣然たる笑みを零す。
 聞こえる足音が扉を開ければ、否が応にもすべては転がりだす。とうに死者となった男の腐った手の中で。ころころと、ころころと。
「会議中失礼いたします。陛下」
 入ってきた従者に耳を傾ければ、ほら。
「キャロライン様が、お呼びです」
 馬鹿げた喜劇の御終いが、訪れるのだ。