第三部 に落ちた彼と六花を願う

六章 トルスの狂騒

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 渡された書類に目を通しながら、自分の手馴れた動作にわずかながら思わず苦笑をもらす。もうこういった執務を行うようになってから、シェルマントンのときを含めば六年と少し。即位してさらに増えた量にも慣れ始めた二年目である。案件一つ一つに目を配ることは確かに変わらないが、前よりもその作業をあっさりとこなせるようになったのは良いことだと思う。躍起になっていた二年前が懐かしい。
 二年前の即位式から月日が流れ、傍目には何も変わらないような世界情勢ではあるが、明らかに変わったことが二つ。大陸連合組織フィントールからトルス帝国が脱退したこと、そしてキャシャラ国の王が既にこの世を去り、直系の孫娘レベッカ姫が亡くなられたということだ。
 前者は明らかではあるが、後者に関してはまだはっきりとした情報がきているわけではない。しかし、かの国からイチェリナへ逃れてくる民の数は、以前に比べ格段に跳ね上がっていた。ウルスーヴェの魔物の蔓延る砂漠を越えた民は、そのままの勢いでトルス帝国へ誤って踏み入ることも多い。関門での見張りは最近特に厳しくなったようで、キャシャラの民を守るために遣わせた軍団と一触即発の状態であると聞く。
 そしてまた、キャシャラの民を受け入れることは決まっているとはいえ、彼らに分け与えられる土地は多くはない。もとよりイチェリナの国土は他国に比べて少ないのだ。イチェリナ人とキャシャラ人たちとの諍いが増えるだろうことは想像に容易い。
 しかしかといってキャシャラを属州として守り続けることは不可能だ。キャシャラ本国とトルス両国に送った大使を呼び戻さなければ、戦渦に巻き込まれることも請け合いだ。せめて私が玉座にいる間にキャシャラだけでも建て直していて欲しかったが、それはもはや不可能と考える。ならばせめて打てるうちに杭は打つ。
 連合組織からの報告書を卓上に寄せて、新たな便箋を一枚取り出して書き連ねる。私の代わりを務める彼女にやっていただかなければならないことを、単純にリストアップしていった。
 執務室には私と護衛以外存在しない。できるならば老師にもいてほしいものだが、彼ももう若くはない。私でできることはすべて終わらせてしまわなければいけなかった。
「失礼します」
 ノックと共に聞こえた声に入ってと返しながら、たった今戻ってきたばかりの従者に書き上げたリストを手渡す。
「これは?」
「いわなくとも分かるでしょう」
 そういいながら手紙に封をした蜜蝋を指差せば、彼はああと納得したように頷いた。また少し大きくなった少年だった彼は、今やもう見違えるほど立派な青年だ。翡翠の瞳は前より涼やかになって、少年の頃はわずかに膨らんでいた頬はすっきりと大人のように。
 城の女中たちがはっきりと好色の目で彼を見るようになったのは聞いていた。浮いた話の一つでもあればいいものを、まるで潔白なウィルを慕う者は多いらしい。しかし誰も踏み出せずにいるのは。
 伸びた琥珀の髪を、彼がいつからか赤の紐で結ぶようになったから。
 それが指すところは一つしかない。赤といったらこの城で働く者が思い描くのは、一年と少し前、女王が斬り捨てたあの侍女しかいない。
 ソフィア様から聞いた話によると、女王は従者に恋慕し、しかし従者は侍女と既に恋仲だったため、その想いに答えることができなかった。それが許せなかった女王は侍女を切り捨て、従者は今尚女王の下にこそ仕えてはいるが、その心は侍女のものであると示すために赤の紐を身につけているのだ。そういうことになっているらしい。勿論女王が指すのは私。
 何も知らない者から見れば、そのほうが楽しい。だからその噂について私は一切口出ししなかった。ガレス卿の物問いたげな視線や、他の四卿をもやり過ごした。
 ただ、私にとって大事なのは。
 あの赤が目に入ることで、忘れてはいけない存在を認識させてくれること、それだけだった。
「キャロライン様は」
 机の上に分類された書類を確認し、出しにいける範囲のものを確認していたウィルはその名前に顔を上げた。目線が合致する。が、すぐにどちらともなくそれを逸らした。
「お変わりありません。ベアード殿下を連れて帰ると」
 今最も頭を抱えている内容がそれだった。母国であるトルス帝国が反旗を翻すならば、その敵の大将ともいうべきイチェリナに身を置き続けるのは確かに愚か極まりない。しかしそれはこの国に嫁ぐと決めたときに覚悟していただろうはずなのに。他国に嫁ぐということは、その国に己の命を預けたも同義。女として生まれたならば、慣れない土地で死ぬのはもはや定めだろう。私のように玉座を継いだ人間でも。
 かの女はトルスに舞い戻ったところで、息子ともども受け入れられるとでも思っているのだろうか。それこそ在りもしない幻想だというのに。
「面倒ね」
 キャロラインだけがそう言い張っているのならば気にはしない。しかし義兄の動きすら封じるということはどういうことなのだろう。ベアードは今自身の部屋で軟禁状態にあるという。彼女たちが暮らすその館は、私や叔母が訪れることを拒んでいる。近寄ろうものならあの女の息のかかった兵士が飛び出してくる仕掛けだ。無論従者や侍女も。
 時間が、ないというのに。
 フィントールからの報告書を見るまでもなく、トルスは着々と軍備を整えていた。近代的な兵器を次々と生み出すその財力にはあきれ果てる。何度も何度も懲りずに反旗を翻す度、彼らの領土や山の所有権を奪っているというのにどこからか資金をかき集め、またも同じことを繰り返す。
 増えた書類に目を落としながら、思考はゆっくりととりとめもなく広まっていく。
 イチェリナは国の英雄に覆いかぶさって生きてきたなんてことのない凡人の集まりだ。トルスのように野望を持って生きるでもなく、キャシャラのように軍から手を引くことすらもせず。強力な魔力を引き出し、空国との国交を得て、それがすべてだ。
 ならば、トルスがもう二度と、反旗を翻せないよう、打ちのめすのみ。
 それを成し得るのは誰なのか。それを行ってしまうほどの力を持つのは、どの国なのか。そのために私が、父が、兄が積み上げてきたものは、もうすぐ完成する。父の望んでいたことを初めて本当に理解したのは、シェルマになったその年だった。
 そのとき、私は。
 父という王の能力を知り、驚愕し、そして心の底から畏敬の念を抱いた。
 彼はいったい幾つのときから、隣国であるトルスという国を排除しようと考え続けていたのだろう。あの人の作り上げた計画は念入りだった。母の身体のことや、義母との婚約、そして兄があのように生まれ出ることすらも、すべて予想し、組み立てられた計画。呆れることにセシルフラスト公爵一家のあの惨殺事件すら、彼はその想定内に収めていた。それを幼い私がどのように受け取るかも、すべて。
 私たち王族は、皆、彼が死んだ今なお、その計画に踊らされて生きている。