第二部 い紅い朱い彼女

五章 フォエマの宴

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「ウィル、どこへ行くの」
 従者は言葉に答えることなく、滑らかに迷うそぶりも見せずに私の手を引いて歩いていた。いつかのときのようだとぼんやり思いながらそれでも決定的に違う、と感じる。私たちは二人ともすっかり穢れてしまった。あのときの優しさや温もりは欠片もなく、二人とも泣き出しそうなのを必死にこらえて生きていた。みっともないほど哀れな姿で、離れたくなくて。
 でも本当は違う。
 ウィルはもうずっと前から私の傍にはいなかった。私から離れて既にどこにもいない。どこにも、そうどこにも。
「なら今あなたが掴んでいるこの手は、誰のものだと思う?」
 心を読んだかのような言葉にびくりと震えた。ウィルの声。これが偽者だなんて信じたくない。信じられない。
 それでもまだ彼は足を止めるでもなく黙々と歩いていた。どこに向かっているのかを知らぬまま、暗いなと感じる。夜の色は既に夜更けを越えて、回廊の硝子の遥か向こうに紫を塗り替えるようにして橙へと姿を変えていく。いつの間に雪が止んだのだろう、六花が時折風に揺られて白く煌きながら宙を舞っていた。
「わからない。わからないの」
 幼い子供のように繰り返す。そう言葉を返すうちにも、ぽろぽろと涙が流れていく。いつの間に私はこんなに泣き虫になったのだろう。もう何年も泣いていなかったはずなのに。堰を切ったように涙が止まらなかった。
「ロッティは小さい頃からよく泣いていただろ。君はずっと昔から泣き虫だった」
 そう言い切って彼はくるりと振り返った。いつの間に着いたのだろうそこは、今来た道以外すべて雪景色の小さな教会だった。けれどほのかに温かい。硝子が全面を覆っているのだ。幻想的な空間の中で、すっかりと私を越えた青年が、翡翠の瞳をまっすぐに私に向けて立っていた。
 す、と伸ばされた腕にわずか震えれば、温もりが身を覆った。この腕は怖くない。この温もりは、私を何よりも安堵させる。
「メアリを殺したこと、どうして泣かないの」
 赤い少女が脳裏にはっきりと現れる。緑のはっきりとした目が何度も何度も、堪えきれない憎悪と愛情を混ぜて死んでいく。何度も何度も繰り返し、繰り返し。彼女を殺めたあの日からあの赤い花が散る夢を見続けた。そしてそれは今も。夢を見ているわけでもないのに、瞼から赤は拭われない。付着して洗い落とすこともできずに、悲鳴すらもあげられずに毎日を過ごしていた。
 けれどそれは罰だ。
 殺した人間だからこそ持ちうる押しつぶされそうな罪悪感。それは長くもない一生ずっと抱きしめて離すことは許されない。
 馬鹿馬鹿しいとも愚かとも思う。
 ただ私怨で殺した少女のことばかり覚えていて、戦で切り捨てた人間を覚えてもいないその身の癖に。そんなふざけた記憶しか持たないくせにどうしてあの子のことを、こんなにも忘れられないのか。答えはとっくに弾き出されているのに。愚かしいほど認めてしまうのが怖かった。
「私に、泣く権利なんてないわ。資格も何もありはしない」
「本当はそう思っていないくせに。じゃあどうして今君は泣いているの」
 優しい声に問い詰められるようで息が詰まる。そういわれて必死に泣き止もうとしても一度外れたたがは戻らない。そっと背中を撫ぜる手に、どうしてか彼女を思い浮かべてより一層苦しくなった。
「私は、今まで幾人も殺したのに、メアリだけ――、どうして」
 メアリだけ特別視なんてできない。
 嘘だ。嘘だとわかっているからこそ言葉にならずに、涙がこぼれた。慰めるような手には、きっとウィルだけじゃない誰かがいるようだった。あっという間に目の前からこの世から消えていった、尊い人たち。
 他の切り殺した人間が尊くないわけではない。勿論そんなわけがない。どうであれ私が彼らを殺したことによって、路頭に迷い食にすらありつけない妻子はたくさん生まれたのは事実だ。そして彼らが抱く想いは皆一緒。
 愛しい人を殺した相手への、限りない憎悪。
 ならば、私がこんなにも苦しいのは。
「どうして、私」
 あの子を殺してしまったの。
 目頭が熱い。喘ぐようにして酸素を求めながら、それでも涙は止まらなかった。やわらかなフリルが濡れるのも構わずに必死に涙を拭って、それを終わらせようと冷たい手をぎゅっと押さえ込んだ瞼に押し付ける。泣いて、すべてが許されると思っているのだろうか、私は。そんな愚かな真似を、皇女である私はすべきではないのに。
「メアリエルは、あの人の命令に従って、君の飲み物に薬物を投与していた。君ほどそういったものに敏感な体質はないから、すぐにわかったけれど。でも、それが本当に、君の幼い頃を取り戻したかったからだと思っているのか」
 違う、と首を振った。あんなものはふざけた口実だ。あれを信じるわけがない。
 耳から入ってくる言葉は残酷なまでに冷たかった。優しいくせに冷めているこの声。問い詰めるような言葉尻さえも、無鉄砲な人を大切に思うからこそ溢れた声に聞こえて、私はもう一度首を振った。馬鹿な。ウィルは、ウィルじゃないのに。どうして、私は。
「調べたら、答えは簡単だった。彼女はあの人の作った薬物に犯されていた」
「そうだったら、薬物に犯されていたなら、私があの子を殺してもよかったことになるっていうの!?」
 押さえつけていた感情が発露されたように声が荒くなった。それでももう、私は止められなかった。ウィルを見上げその無表情の中に含まれる哀しみを知って、だけど私は手を振り上げた。乱暴に何度も何度も子供のように彼を叩く。
「そんなの嘘よ! そんなわけない、そんなのただ自分の言い分を通したいだけの戯言じゃない!」
 ウィルは答える代わりにひどく乱暴に私を抱き寄せた。その仕草が少しだけ怖くて思わず手を止めて見上げれば、彼は苦しそうな顔をしていた。それはきっと、今の私の顔なのだろう。
 ずっとするのさえ苦しかった呼吸が静かに落ち着いていくのを感じる。
 ただどうしようもなく泣き崩れれば、ウィルはきっと抱きとめてくれるのだろう。そのまま意識を手放せば、きっと抱き上げて寝室に連れて行ってくれるのだろう。
 そして、名前を呼んで、頬に触れて。
「シャルロット」
 涙で濡れた唇を、温かなものがかすめたのは、きっと夢。