第二部 い紅い朱い彼女

五章 フォエマの宴

19

 意識が戻ると同時に私は身体の動きが鈍いことに気が付いた。右手をついて身を起こそうと力を入れるが、冗談ではなく何もできない。そのくせ視界はやけに澄んでいて、だから見たくもない顔を見、聞きたくもない声を聞いた。伸ばされた手を拒絶することすらできずに、そっとベッドに押し戻される。顔に張り付く違和感はないということは、仮面は今外されているのだろう。
「目が覚めた? シャルロット」
 その藍色の眼を睨むわけでもなくただ見つめれば、彼は一瞬泣き出しそうな幼い表情を浮かべた。あまりにも不安定な表情はけれど瞬きをする間に消えている。ただ妖艶で蠱惑的な笑みを浮かべ、するりとこちらへ近寄ってきた。押しとめる力のないまま男の細長い指が、頬を撫ぜるのを感じていた。目線は逸らすことなく男を見つめている。
 まるで、何も感じていないかのように、平然と。
「君は、目も逸らさないんだね。僕が何を望んでいるのか、分かっていないの?」
 声が、まるで許しを請う幼子のようで。
 沸き起こる戸惑いを握り潰し、表情を一切変えることなく彼を見る。この状態で何が起こるのかなど知るはずもないことだ。少なくともアルフレッドやベアードが知っていたのとは一転し、私は皇女である時分からそれらを排除して生きることが決定されていた。それでもそれを心配した侍女や乳母が少しだけ教えてくれたが、私には理解できなかった。この状態で男が何を望むのか。分からない。
 ただ、その藍色の底から浮かび上がる狂気が。
 散っていった赤よりも濃厚に、濃密に忍び寄るようで、恐ろしい。
 もしもこれがあの翡翠ならば――、そう考えた自分を笑いたくなった。ずきりと痛むのは心臓か意識か。判別する頭もゆらゆらと溺れるようで、まるで底なし沼に落ちてしまったかのような浮遊感が怖い。
「義兄様。あなたは、何のために、ここにいるのですか」
 勿論私のためではない。フォエマのためでもないだろう。ましてやあの女のためでもないはずだ。ならば、彼はどうして今、私を捕らえている?
 何を望んでいるのか、分からない。
 ただ疑問を口にすれば、男は柔らかく笑って顔が一層近づく。唇がかすめるようなその位置で、藍色の中に孕んだ紫が強烈に芽吹く。温かい息が唇を舐めてぞわりと背が凍った。その底に映るのは。
「僕のため、だよ」
 愛欲。
「は」
 拒絶する間もなく薄い唇が強引に重なった。咄嗟に引き離そうと乗り出した肩を押すが、薬のせいか力がこもらない。せめて口付けから逃れようと首をひねるがそれすらも許されず、両手はあっさりと絡めとられてしまった。もしもそのキスが幼い頃挨拶のように交わしていたままごとのようなバードキスならば、こんなに私は怯えなかっただろう。
 けれどこれは違う。
 愛欲によって裏打ちされた本物の口付けだった。いくら知らぬといってもバードキスとの違いが分からぬほど愚かではない。別人のように唇を吸い上げるこの男は、誰。
 呼吸が苦しくなって何度も目の前の彼の胸板を叩く。どうにか引き離す頃にはじんわりと汗すらかいていた。理解できぬまま義兄を睨み上げれば、彼はやはりうっすらとどこか寂しそうに微笑んで、私の目じりを拭う。そうされて初めて涙を流していたことに気が付いた。涙で濡れた指が目に入り、屈辱なのか羞恥なのか私は知らず唇をかみ締める。
「どういう、おつもりですか」
「ねえシャルロット。僕がどうして君をここに呼んだのか、考えつかなかったのかい? 聡い君ならとっくに気が付いて、それに対する策すら練っているものだと思っていたよ」
 問いに答えず彼は淡々と言葉を落とす。嘲笑かと思えば、けれどいつも通りの薄い笑みが唇に乗っているだけだった。それすらももはや作り物めいて完璧で。理解できない恐怖を覚えたが、弱った身体では碌な抵抗ができなかった。
「何を、仰っているのです」
「シャルロット。君は残酷な人だ。僕よりもレティリア叔母よりも、メアリやフォエマよりも、誰よりも残酷だ」
 飛び出た名前に、瞼の裏で赤い血が跳ねる。息を詰めたのに気づいたのか彼は喉の奥でくつりと笑って、私の唇に指を這わせた。震えているのかと思えば違う。そうして気づいた事実に愕然とした。
 震えているのは、私だ。
「ウィルヘルムが、どうしてここにいないか分かる?」
 何故ここでウィルの名前が?
 理解できぬまま首を微かに振れば、彼はうっとりと目を細めた。何よりも妖艶な表情に見蕩れるよりもぞくりと悪寒が走る。沸き起こる焦燥に義兄を押し戻そうとすれば、あっけなく腕に抱かれ耳を唇が撫ぜた。甚振るように耳を甘噛みされて、そして反応を愉しむような冷たい声が。
 凍りついた心に釘を打つ。
「彼は、どこにもいない。君と今までいたのは偽者だ」
「う、そ」
 嘘だ。有り得ない。だってあの翡翠の眼は、確実に彼の物だった。一度引き離されてそれでも忘れられなかった、あの美しい翡翠。何度も何度も彼を救うために、あの優しい目を優しい人を取り戻すために、私は。薬を飲ませようと伸びた細い指と、唯一すべてを赦せる翡翠の底が、ぐらぐらと揺れていく。あのときに見せた感情は何だというの、どうして私を守ろうとするの、私は、私たちはあなたからすべてを奪ったというのに。
 今まで抱いていた疑問が声にならない悲鳴となって、声帯から零れそうになる。それを無理矢理に抑え、代わりに零れた涙の存在に、嗚呼、と溜息が溢れた。それすらも呑み込むように寄せられた唇を拒絶することもできない。
 信じていた、信じていた。ただ無性に彼のことを彼だけを信じていた。会うことが許されなかった数年さえも、ひたすら一心に信じていた。けれどそれすらももう終わっていたならば。私がしたことに何ら意味がないのだとすれば。
 もしも、あなたが既にどこにもいないと知っていたなら。
「ウィル」
 愛してる。

「ベアード、お楽しみのところ悪いけど、時間だよ。女王陛下の騎士様の登場だ」
 気だるい夢想を破るようにしてフォエマの悠然とした声が部屋に響く。ずっと抱きしめられていた重さがなくなるのを感じて、呆然と声の主がいるだろう方を向いた。そこに立つのは。
 激しい怒りを押さえつけた、琥珀の髪の愛しい人。
「シャルロットを、返していただきます。義兄さん」
 熱い涙が頬を滑り落ちたのを、ただ感じていた。