第二部 い紅い朱い彼女

五章 フォエマの宴

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 フォエマは外来貴族でありながらその商才は、高名な彼の父を遥かに上回る。自らの才だけではないとはいえ、彼のその有り余るほどの手腕は私から見ても常人とはいえなかった。そのフォエマ自身が主催する舞踏会は、商人上がりの貴族によくある下品なそれとは違い、どれもこれも繊細で雅だった。
 しかし、どうしてだろう、そこはかとなく漂う甘い香りが気になった。これだけが唯一場違いのように思う。舞踏会では普通貴婦人たちが皆香りを身にまとうため、すべてが交じり合いとてつもない香りに変化する。それを抑えるために香をたくのが主流だが、この流麗な舞踏会に強烈な甘さは似合わないように思った。ここまで美しく場を整えるのに、フォエマがそんなミスを犯す? それは有り得ない。ならば。
「ルーシェ。ようやく来たのか、遅かったね」
 偽名を呼ばれ、はっとする。仮面を被っているのにも関わらず、その容姿の美しさはまるで衰えない義兄が近づいてきた。目は前髪で隠されてわからないが、外に出ている口元はかすかに微笑んでいる。その隣に立つのは幼い頃から何も変わらない、あのすべてを悟ったような淡い目の男。儚い眼差しをそのまま向け、て――。
 違った。
 ベアードの隣に立つ彼は、はっきりと私に嫉妬を向けていた。真っ正直な嫉妬心を隠すことなくさらけ出し、私がそれに気づいたのを見て取ると、薄い唇に白い指を乗せて。
 しい、と笑った。
「どうしたんだい、ルーシェ? 顔色が悪い」
 ベアードの問いに首を振る。フォエマは既に何事もなかったかのように、こちらを向いて私の手をとりそこに口付けを落とした。
「お久しぶり、ルシル。六年間で、見違えるほど美しくなったね」
「ありがとうございます、フォエマ様。あなたもお元気そうで何よりです」
 社交辞令をさらりと流して感想を述べる。その意味を正確に汲み取った青年は柔らかく苦笑した。彼だけは仮面を被らず儚い美貌をさらけ出しており、それを見て頬を染める娘たちがいる。知っていてやっているなら性質が悪い。
「そうだね。前よりは、大分。その節は君にも迷惑をかけた」
「そんなことはございませんわ」
 目線を伏せてそう応えた。彼が何を考えているのか、分かるようで分からないのが苛立たしい。これからどうするか決めるに決められない。そういうところは何も変わっていなかった。
「話があるなら二人で踊ってきたらどうだ、フォエマ、ルーシェ」
 義兄が唐突に声をあげてそちらを見やれば、ちょうどウェイターからグラスをもらっているところだった。その姿を見てフォエマが、あはは、と軽やかな笑い声をあげる。
「これくらいのことで嫉妬しないでくれよ、ベアード。本当に君は堪え性がないね」
「そんなわけないだろう。それとも今待っている挨拶客全部に接待するのか、君は?」
 ふんと鼻をならした義兄に、フォエマは心底嫌そうな顔をした。
「それは嫌だな。じゃあ優しいお兄様に免じて一緒に踊ろうか、ルシル」
 茶目っ気たっぷりに笑って、彼は私に手を差し出した。細い病人そのものの白い手を。
 一瞬、違和感を覚える。何かが圧倒的に間違っているような。
 けれどその答えを出すことよりも先に、やらなければいけないことがある。だから私は彼の白い手をとった。口元に薄い微笑を浮かべて。
「ええ、是非」
 教えて。あなたは何を企んでいるの。

 フォエマのダンスは完璧だった。そつなく無駄なく流麗な動きで決して女性にリードさせない。安心して彼のステップに身を委ねていれば間違うことなど有り得ない、そう思わせるような踊りだった。けれど女性とダンスした経験があまり多くないのか、触れる手は緊張しているように硬い。
 いや、違うだろう。彼は間違えて私を壊すことを恐れている。強く握り締めれば硝子のように砕け散ることを恐れている。そんな気がした。
「髪、どうやったんだい?」
 す、と零れた金髪を手にとって、唇を落とす。そうしている間にも青年はステップを淡々とこなしていく。器用なものだ、そう感心しながら目線を落とす。傍から見れば、その行為に頬を赤らめ恥ずかしがっている娘に、見えるだろう細心の注意を払いながら。
「ただの鬘です」
 けれど落ちる言葉はこの上なく淡白だ。彼本人に演技をする必要などない。私が凍りつく前から知っていたのだから、それだけは確かだった。それをフォエマがどう思っているのかはわからないが。
 その簡潔すぎる返答に彼は楽しそうに笑った。誰を刺激するためにか顔が一際近づいて、額と額が重なる。そっと顎に指が伸びて顔を上げさせられ、それを抵抗することなく受けいれる。目線を彼に合わせれば青年は妖艶に笑っていた。それが横からどう見えるかなど、考える必要もない。向けられる視線の中で強いものを感じながら、淡々と、ダンスは違うことなく続いていく。
「本当に、美しくなった。それでも、疲れているね、シャルロット」
 疲れて、いる。
 彼から見ても分かるほどなのだろうか。その不安を目に浮かべれば、彼はするりと顔を引き離した。そのまま回りの目を気にせずに優雅に舞う。
「ああ。ひどい顔をしている。何があったのか尋ねても?」
 表情がわずかに変わった。今までのふざけた様子は影を潜め、その目は真剣にこちらを向いて私の口から出る言葉を一言も聞き逃さないとでもいうかのように。その仕草につきりと胸が痛んだ。じわりとにじみそうになるそれを、どうにか押し留めて言葉を落とす。
「メアリを、喪いました」
 私には兄が二人存在する。実兄と義兄。だけれど彼もまた、私を妹のように扱ってくれるのだ。あなたから確実に大切なものを奪うのに。それなのにどうして私を心配するの。守ろうとするの。
「あの子が」
 表情が暗くなった。フォエマもメアリのことを知る人物だった。ならば教えて然るべきだろう、それを行ったのは誰なのか。
「私が、殺しました」
 顔色ひとつ、変えなかった。フォエマはただ一度こくりと頷いて、ダンスをやめると壁際の椅子に私を座らせた。ウェイターから果実酒の入ったグラスを受け取るとそれを勧めてくる。ありがたく受け取ってそうっと口に流した。
「悔やんでいるの?」
 首を振った。悔やんではいない。間違ったことを行ってしまったなどとも思わない。ただこの堪えようのない喪失感が、止まらなかった。口には出さなくとも伝わったのか、フォエマはそっと私の手をとって握り締めた。優しく引き止めるような強さで。けれどもうにじむものはない。大丈夫、あれは、大したことじゃない。そう、大したことではないはずなのだ。
「そうは見えないよ。泣いても、いないんだね」
 目元をそっと撫ぜられる。腫れてすらいないのは自分でも分かっている。私に涙を流す資格など存在しない。それが許されるのは、絶対に私ではない。
 愚かな考えなのは理解していた。そんなものはただの自己満足にしかならないということはもうわかっていた。それでも。
 不意にぐらりと眩暈がおきた。先ほど覚えた違和感とは違うものを感じつつ、立ち上がろうとしてよろけフォエマに抱きとめられる。細い腕、細すぎる腕。あることに気づいて顔を上げれば、彼の顔はもはやぼやけて輪郭さえ映さなかった。意識が遠のいていく。
「君は、愚かだね」
 彼にはもう、時間が残されていないのだ。