第二部 い紅い朱い彼女

五章 フォエマの宴

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 仮面舞踏会が行われる三日目の夜、ベアトリチェと共に部屋を出た。外で着替えが終わるのを待っていたウィルがあとに従い、三人でホールに向かう。本当は王付きの護衛がいるから三人ではないのだが。
 通りがかる人とわずかに会釈しながらちらりと見た硝子の向こうで、雪原が闇と共にそこにあった。指先がちり、と痛む。寒いわけではない。むしろイチェリナ人たちは北国だから寒さには慣れている。雪原で風が舞ったのか、月光に照らされて六花がわずかに浮かび上がる。つ、と足が止まった。
 雪の中に浮かび上がる、女の姿。
 広がった長い髪は月光によってか白銀に映り、けぶるような瞼がその大きな深遠の眼を覆い、白い肌の中唇だけが異様に赤く。羽織る衣はこの国のものではなく、ただずるりと垂れたその藍色がかの国を思い起こしぞっとする。けれど口元に乗った笑みはその恐ろしいほどの静謐な空間とは対象に、優しい母性に満ちたそれだった。
「へ……い、か?」
 目が彼女から離れない。食い入るように見つめていれば、どこか幼い女は細い指をこちらに、正確に私の胸元を指した。指を追うようにして胸元に目を落とし、はっとする。そこは。
 病巣が巣食う場所。
 どくん、と一際鼓動が大きく聞こえた。呼吸が不確かになるのを必死に抑えようと口元に手を当て、もう一度硝子を覗く。女は大きな眼を緩ませて、わずかに哀しいものを見るような目で私を見た。赤の唇が開かれて、言葉が落ちる。食い入るように見つめて言葉の意味に困惑を浮かべれば、彼女はふ、と笑うと忽然と姿を消した。
 そして、ようやくまわりの音が入ってきた。
「陛下、陛下?」
「ベアトリチェ、申し訳ありませんが水をもらってきてください。陛下、聞こえますか」
 ウィルの指示に侍女はあわてたように駆け出し、柱に寄りかかって立っていることに気が付いた。呼吸が苦しい。この廊下では人に見られる。そう非難の目をウィルに向ければこくりとうなずき、近くの扉に護衛を向かわせ入れるか確認しながら、私を抱き上げた。いつ以来触れていなかったのだろう、その温かい腕に泣きそうになる。
 あの女は、誰。
 人ではない。人ならあんな風に消えられない。ならば妖魔か。
 けれどあそこまで人に類似した姿に身を変えられるのだろうか。妖魔については一通り脳に叩き込んではいるが、この王都に近い街で妖魔が出るなど聞いたこともない。もしもそれが有り得るならば、それは国の基盤が緩んでいる証拠。
 顔を歪めれば咳が散った。たまたまあった椅子に身体を横たえて、まずいことになったと顔をしかめた。
「薬、は」
「持ってきております。ですが、水が」
 いいから寄越せと手を伸ばせば、彼は一瞬逡巡した後薬をのせた。唾で飲み下すしかない。口に含もうとした直後、唐突に手を引きとめられた。呼吸が荒い。仮面がずらされ同時にウィルを見つめて背筋が凍った。もしも、ウィルがあの女の手先なら。
 目が合った。翡翠の底を覗かずとも、彼の意図を理解していたのに。
 ここではだめだと首を振る。苦しい。それを知っているからか、ウィルはわずかに身を乗り出して私の手から錠剤を摘み取り。
「陛下! ウィル、もって参りましたわ!」
 ベアトリチェが扉を開けて飛び込んできた。そのまま何が行われそうになっていたかまったく気づかぬ様子でこちらへと近寄り、ウィルが手に取った錠剤を奪い取って私に水と共に差し出した。
「陛下、ご無理はなさらないでくださいね」
 ほっとしながらも呆然となるウィルが可笑しかった。ありがたく受け取り水で薬を押し流す。こんこんと咳をすれば、侍女はいつの間に用意したのか冷えたガーゼで噴出した汗をぬぐってくれた。
「陛下、せっかくの舞踏会ですが、今夜は辞退なさったほうがよろしいかと思います。お具合がよろしくないことを、まわりに気づかれてしまうのは少し」
「そうですわ陛下。明日もまだまだ舞踏会は続きます。無理をなさらず休んでいたほうが得策だと思いますわ」
 休んでしまえば確かに楽だろう。そっと呼吸を繰り返す。無理やりに動かしていたのか心臓が乱暴に脈打っていた。そのリズムが穏やかになってから身体を起こす。これもひとつの仕事だ、休めない。
「いえ、行くわ」
「陛下」
「陛下!」
「行くわ」
 二度はない。鋭い声に二人の臣下は戸惑い、やはり従者のほうが先にうなずいた。身体を起こすのを手伝って、耳元で声は落ちる。
「無茶を、なさらないでください」
 一瞬だけ、翡翠は深海に落ちた。いつもとは違う艶やかな金の巻き毛が雪肌を覆い、唇は桃色に輝いて、触れた肌は凍えるほどに冷たい。同様に、ウィルに向けられた眼差しには、どこにも優しさなどないだろう。
 言葉を失った彼から身を離して立ち上がる。よかった、そこまでひどくはないようだった。発作と雪の中に見たものが重なったから、あんなにも動揺してしまったのだろうか。ずきずきと、今度は違う痛みが胸を突き刺すのを知らない振りをして、仮面を手に取る。高名な細工師ヴァロンの作だろう、それで素顔を隠す。この感情を、誰にも悟られたくなかった。
 あのとき、雪原に立つ女が、一瞬。
 幼い頃の自分に、見えたことを。
 何も知らないロッティは、もうどこにもいないのに。