第二部 い紅い朱い彼女

五章 フォエマの宴

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 イチェリナは北に位置する分、どうしても冬が来る早さによって何もかもが変わる。今年は特にその中でも穏やかな、例年稀に見ないほどゆっくり冬はやってきた。夏、秋と作物は豊作で、塩害や凍土も目立った災害にはいたっていない。こうしてたとえ隣の街といえど、私が玉座を空けられることが立派な証拠だろう。硝子の外に、はらはらと六花が零れて落ちる。空は、ぐったりと重い鉛色を横たえていた。
 その馬車に乗り込んでいるのは、私とベアードによってつけられた侍女だった。確か名前はベアトリチェ。我が兄ながらやってくれる。薄い失笑が唇から漏れた。彼女はトルスの娘だった。
 笑ったのに気が付いたのか、侍女はつ、とその目をこちらに向けた。窺うようなくすんだ青。ほんの少し、憎らしい。メアリはたとえどんなに私を畏怖していても、そんな臆病な眼差しを向けやしなかった。
「いかがいたしましたか、シャルロット陛下」
 ――馬鹿なことを。
 首を振る。忘れてしまえ。あの赤い少女を。赤く散った少女を。
「いえ」
 赤く、散った。
 そういったのは私ではない。ならば答は簡単に弾き出せた。
 ベアトリチェはおどおどと私と私が見ている窓を見比べ、それからやはり小さな吐息をもらして前を見つめた。やりづらいのだろう、あの義兄のもとにいたのなら、なおさら。しゃべらなくても向こうから話を振ってくれる分、それは確かに楽だった。そして、言葉を発さないなら、彼女は本当にベアードのもとにいた。
 あの女のところではなく。
「義兄様は、仕えるに足る、主人?」
 尋ねてみる。別段深い意味はない。彼女は声をかけられたことに目を見開き、それから頬をわずか紅潮させてこくりと恋する乙女のようにうなずいた。
「はい、すばらしい方です。私のような一介の小貴族の娘に対しても、分け隔てなく接してくださって。しかも陛下のお傍付きになれるなんて、思ってもみませんでした。ベアード様はよく陛下のお話をなさいますのよ」
「例えば?」
 分け隔てなく接する? あの男が?
 一瞬紡ぎだされた言葉と、知っている人間との落差に戸惑う。そうか、私が知っている彼は、ベアードという人間ではなくて、私の義兄としてそこにいるのか。
 丁度、ウィルが私の従者としてここにいないように。
「昔、先々代国王陛下に呼ばれたときに、陛下は時間ぎりぎりまで眠っていて、紅茶の時間のときにあわてて駆け込んできた、とか。陛下は紅茶が好きですものね。そうそう、キャシャラから取り寄せたラッチェルはいかがでしたか? ベアード様が、陛下がお好きな味だからお持ちなさいと仰って、持たせてくださったのです」
 先ほど飲んだ紅茶か。義兄は呆れるほど、私の好物をよく知っているなと感心した。事実、爽やかでどこか冷涼な味に、沈み込んだ茶葉の甘みが香り立つその紅茶は、まさに私の好みそのものだ。というより紅茶の本場イロップを凌ぐほど、キャシャラは入れ込んでいたのか。大使として遣わせた者からの便りを見る限り、キャシャラは今ようやく農地を開墾し始め、ゆっくりと国土を作り上げていた。何ら恐怖を抱かないはずの場所で、わずかな不安を感じる。あの国の唯一の特産物とは、何だった。
 キャシャラは小国だ。周りに大国がひしめく中で、かの国は唯一無二、軍を持たない完璧な平和主義国でもある。西にキクリの大森林、北にウルスーヴェの荒廃のひどい砂漠、東に強烈なまでの軍事国家トルス、南に明志国の壮大な鵬衆連峰などさまざまな困難に囲まれて、よくぞあのような国が生まれたものだと感嘆する。
 しかし遥か昔、トルスやウルスーヴェを征服し、キクリを最西端まで追い詰め、鵬衆連峰越えをしたという史上最強の国であったことを考えれば、納得するしかない。時代は荒れに荒れて妖魔が国という国を徘徊し、人が皆死に絶えていた暗黒時代。その中で興ったのがキャシャラであり、そして暗黒時代を強制的に乗り越えさせた。それがすべて終わったあと、興味がまるで消え去ったかのように支配を放棄し、何もかも捨て去った。そうしてただその荒療治を見守るしかなかったイチェリナに、彼らは降伏した。
 史上最強とまで言わしめた国の終焉は、果たして何が目的だったのだろう。今、キャシャラはイチェリナの属州国であり、独立したとはいえない。あの小さな栗鼠のような国は、その頬に何を溜め込んで刃を磨いているのだろう。
 イチェリナの味方成りえるのは、国交が盛んなキャシャラやトルスではなく、唯一あの国しかない。また、真の意味で敵に成りえるのも、同じ。
 何かが動き始めているのか。
 こつん、といきなり何かが額にぶつかった。
「陛下。本日から五日間、執務はすべてお忘れください」
 顔を上げればベアトリチェがわずか頬を緩ませて、その綺麗な白い指を私の額に当てていた。額というよりも、眉間。先ほどまでの緊張はもうなくなったのか、彼女はやわらかに笑った。
「眉間に皺が寄ってはせっかくのお美しい顔が台無しですわ。ベアード様もご心配なさっていました。毎日連日連夜お仕事をなさっているのでは、お身体にもよろしくありません。この五日間だけでも、羽を伸ばしてください」
 一瞬何を言われたのかわからずに、まじまじと彼女を見つめてしまう。けれど侍女は艶やかに柔らかに笑っただけだった。
「そう、ね」
 目を伏せる。けれど内心はやはり混乱していた。疲れている、のだろうか。あまり自分の身体の不調を気にしないのでどうにもよく分からない。いつもなら、そういつもならウィルとメアリが、あの子が。
「……確かに、疲れているわ」
 もうだめだ。離れない。
 あの、赤が散る瞬間。

 私が思ったのは、何だった?

 馬車がゆっくりと留まる。ベアトリチェは嬉しそうに顔を綻ばして、馬車を降りると笑った。
「休みましょう、陛下」
 新たな火の手が上がる前に。
 一瞬の休息を。