第二部 い紅い朱い彼女

五章 フォエマの宴

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 アルセック伯爵領は王都から極東湾岸都市ローインに行くまでに必ず通る、アールスという都市を指す。王都から出るとまずアールスを通り、次にウィオシャを抜け、イロップ、オイローと続いてようやくローインにたどり着く。改めて先日の即位式のとき、クライド卿がどれほど遠くを駆けてきてくれたかを実感する。私は誰からも救われてばかりだ。
「これから五日だけ休暇を取ってくる。サルサ老師、その間のことはよろしく頼みます。何かあったら迷うことなく伝令を」
 朝の議会で簡潔にそう告げると、老いた男は目を見開いた。
「本当にいっておるのか? この大事な時期に……」
「サルサ老師、以前おっしゃっていたじゃないですか、シャルロットには愛人が必要だと。それを探しに行って来るのですよ」
「ベアード殿下、シャルロット陛下とお呼びしなされ。いつまでも子供のままごとをしておっては成長できぬぞ」
 口を挟んだベアードを一蹴し、ちゃっかり小言までいった彼は、わずかに不安そうにこちらを見てきた。何を言わんとするかはわかっている。しっかりと彼にだけ見えるようにうなずくと、わずか安堵したように微笑んだ。
 わかっている、私は決して誰とも契らない。
「ふむ、まあわかっていらっしゃるようなら良いでしょう。ただし五日できっちりとお戻りになるのですぞ。して場所はどちらで」
「アールスですよ、老師。安心してください、僕が完璧にエスコートしますから。それになんといったってフォエマの宴だからね、安全面にぬかりはありませんよ」
「フォエマか……久しい名前じゃのう。久方ぶりに会うのじゃろう?」
 サルサの言葉にベアードはその眦をやわらかく緩ませた。この義兄は、フォエマのこととなると信じられないほどやさしい表情を浮かべる。どうしてか、なんて問うべくもないのだけれど。
「そうですね、かれこれもう六年は会ってないのかな……」
 はっきりいってアールスは王都のすぐ隣の都市だ。会おうと思えばいくらでも遊びにいける距離であるにも関わらず、彼らは決してべたべたと近づこうとしない。それはもうシェルマになるまでに散々やった、もういいだろうというように。そのくせ彼らはお互いを必要としているのだ。
 ある意味これも正しい形なのだろうと思う。私のように離れることも失うことも怖くて、傍に置いておくことしかできない曖昧さよりはよほど、潔い。
 同じことを考えていたのだろうか、私の従者と目が合った。が、何事もなかったようにそれをそらす。関係ない。これから私はその言葉を何度でも吐き続けるだろう。胸の痛みを押し殺すために何度でも際限なく。
「さ、じゃあサルサ老師のお許しもでたし、行くとしようか、陛下」
 まるで道化のように手を差し伸ばされて、私はその手をそっととった。促されるままに老師に礼をして部屋を出る。
 あと、少し。

 その頃、フォエマの屋敷では、当主の部屋で主従が淡々と会話をしていた。屋敷全体は今夜行われる宴のためにどことなく騒然としていたが、彼らがいるその部屋は静謐だった。
「あの方の手助けをなさるおつもりですか」
 年老いた男は、寝椅子に横たわる儚げな相貌の青年にそう問うた。それは詰るようでいてそして深く悩んでいる声でもある。それを知っているのか青年は美しく微笑んだ。今にも消えてしまいそうなその笑みは、見る者の心をひやりとさせるほど、危ういものであった。
「手助けじゃないよ。俺はあいつの報われない恋慕を少しでも助けてやりたいだけ。どうせ、余計心苦しくなるだけなんだろうけどね」
 ふふ、と意地悪く笑う。子供のように無邪気でそして達観しきった眼差しの彼。彼こそがフォエマというベアードの唯一無二の親友であった。その様子を見守る初老の男は、物悲しげに彼を見やる。青年はそれを受けて、ふわりと笑った。
「そうやって虚しいものを見るように見ないでおくれよ。俺は、それでいいんだ。少しでもあいつに俺を覚えていてもらいたい、っていうならそれは傲慢すぎるかな。なにせ女王を利用することになるんだから」
「フォエマ様」
「冗談、ではないけれど。これで、もし、もしも俺が女だったなら、話は変わっていたんだろうね」
 嗜めた声を一笑し、その淡い青の眼差しを灰色の空に向けた。切なげな瞳であった。
 それはそう、まるで殉教者のように。
「夕方には人が来るだろう。悪いけど俺が出られるのは始まったときだけだ。挨拶や面倒ごとは任せるよ」
「かしこまりました。お休みなさってください」
「わかっているよ。よろしく」
 老人が部屋を出たのを認めると、青年は静かにその瞼を閉じた。
 つぶやかれた小さな言葉。
「ベアード」
 君は、どうして彼女を求めてしまったんだろうね。