第二部 い紅い朱い彼女

五章 フォエマの宴

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「だからさ、君がどうしてあそこに行きたがったのか僕にはわからないよ」
「君にわかってもらわなくてもいいよ、ただ入っちゃっただけだから。これは何度もいっているだろう」
「関係ないよ。もし君が何らかの悪意を持って入ったのだったら、僕は君を裁かなきゃいけない」
 ベアードの言葉にフォエマは噴出した。むっとする彼の前で、厚い羽毛布団にくるまったブラウンの髪の少年は、耐え切れずにもう一度笑う。
「何を笑っているのさ」
「君が俺を裁く? まさか。君はそんなことできないだろう」
「あそこに関しては話が別だよ、フォエマ」
「ああ、それをいわれると何も返せないね。じゃあ聞いてもいいかな」
「今質問しているのは僕だぜ、伯爵」
「そういいながらいつでも君は許してくれるだろう、ベアード」
 目を伏せながら笑う少年に、ベアードは言葉を返せない。どうしてだかわからないが、この同い年の伯爵家の嫡子にどうしようもなく彼は甘いのだ。本当になんだってこいつに甘くなるのか、自分ですら理解できない。それでも彼の頼みごとは大体叶えようとしてしまうのだ。
 唇を尖らせた王家の少年にフォエマは微笑みかけながら、その白い肌によく合った涼しげな声で尋ねてきた。
「君こそどうしてあそこにいたんだい。あとでウィルヘルムに会ったとき言っていたよ、ベアード様が講義をさぼっていたって」
 その問いに答えないで、彼は自分の銀色の長い髪を弄んだ。もはや癖になっているのだろうか、それは手馴れている様子で、より少女らしさが増す。わかってやっているならベアードは本当に意地が悪いと思う。彼の母であるキャロライン様はベアードを放任主義そのものに放り出しているらしいから、余計彼女に対して何らかの感情を抱いているのだろうな、と考えるのは安直ではないと思った。
「……あそこは居心地が良いんだ」
 ぽつりと呻くようにつぶやいた気がして、フォエマは顔を上げた。ベアードは少しだけ不愉快そうに言葉を続ける。
「姉さんは、トルスの血が混じっている子が、ああいう神聖なところを居心地が良いっていうのは、嘘だっていうんだ。トルスは逆賊だからイエラ・イチェリナの尊い神聖な力をわかるわけがないって」
 言葉にフォエマは何も返せなくなる。トルス帝国が逆賊といわれるのは、何度もこの大陸の王であるイチェリナに歯向かい、大陸をのっとろうとするからだ。イチェリナ皇国で育った市民の子は、みなトルスとの長い確執を教えられる。たいていはトルスに対して上から目線で、温情のおかげだとでも言わんばかりに。
 だがフォエマはそういう言い方をする先生が好きではなかった。確かにイチェリナ側からそうなのかもしれない。ではトルスからしたら? 大陸をのっとろうとしているわけではなく、本当に正しいのはトルスだとしたならば、それは何を示しているのだろう。
 勿論そんな恐れ多いことを誰にも言ったことはなかった。あそこで知り合ったベアードではあるが、彼にも言うつもりは毛頭ない。キャロライン様の狂言が増すだけだと幼いながらにもフォエマはわかっていたからだ。
「本当に、そうなのかい? ベアードは逆賊としてあそこにいるの?」
 だから彼はそういった。大切な友人に対する一番の敬意を込めて、そう静かに問うた。
 ベアードはばっとこちらを振り返り、横たわる病弱な少年の胸倉をつかみあげた。幼い子供の頬は怒りで赤く染まり、藍色の目は憎しみを込めて吊り上っていた。けれどフォエマは動じることなく、ただ黙って彼を見つめ返して答えを求める。
「そんなわけないだろう……! 僕は逆賊なんかじゃない。そんな、そんな下種な人間じゃない! 僕は、僕は父様の子で兄さんの弟で、ロッティの兄で! 僕は、そんなやつじゃない! 僕はトルスなんかじゃない!」
 憎悪と悲しみと失望と落胆が混じった声は哀願するようで、そんな情けない声音で伯爵身分の少年をなじったことにベアードは自身に失望した。こいつは何にも知らないのにこんなことをしたら、僕は王家であることなんか誇れやしない。顔を歪ませ銀髪の少年はフォエマの胸倉から手を離した。素直ではないが、悔しさを隠し切れずに餓鬼のように謝罪する。
「ごめん」
 こほ、と軽く咳き込んだフォエマはベアードを見上げてあはは、と笑い声を上げた。それがあまりにも明るい軽やかな声で、馬鹿にしているのかと頭に血が上る。殴ろうと彼を見て、けれどその意欲は嘘のように消えていった。
「あはは、君って本当に本音を言わないタイプなんだね。会ってもう一ヶ月も経つのに、やっと本音を言ってくれた」
 やさしい力強い笑みを浮かべていた。なんてことないと言いたげにすっきりした表情で笑う、フォエマという少年を前にしてベアードは悟る。僕はきっとこれからずっと、ずっとこの少年とあの子に囚われて生きるのだと。どうしようもなくわかってしまった。自分の中に空白を作り続けるのはあの子で、その空白を絶え間なく埋めてくれるのは、この病弱な貴族の少年であることを。
 わかってしまった。
「君は、本当に変わっているよ」
 笑うフォエマを呆然と見ていたベアードは、ようやく我に返ったのかそう苦笑しながら、先ほどまで座っていた椅子に腰掛けた。その言葉にやはりフォエマは笑ってしまいながら返す。
「そうかな? 俺は君のほうが変わっていると思うぜ。普通病気の子供と同じ部屋にいようなんて思わない」
「そんなことは関係ないね。僕はここに居たいからここに居る。それに何の問題があるんだい、フォエマ・ディオ・アルセック?」
 ベアードの言葉にきょとんとしてしまった。彼にフルネームを名乗った覚えがないからだ。フォエマの表情に気がついた目の前の少年は、一瞬しまった、というような顔をしてそれからその藍色の眼差しをそむけた。
「な、なんだい、文句でも」
「……はは、まさか。あるわけないよ、ベアード皇子」
 わざとらしくそうからかってやると、皇子は苦虫を噛み潰したようななんともいえない顔をして、悪趣味だよとぼやいた。
 知っているよ、ベアード。