第二部 い紅い朱い彼女

五章 フォエマの宴

13

 翌朝、目を覚ますと触れる空気はひんやりと冷たかった。上半身を起こしつつ、左手にある窓の外を見ると、白い雪原が太陽を反射してきらめいていた。硝子に触れるとそれはどこまでも冷たく、結露した水滴が伝って窓枠にこぼれる。
 フォエマという男の夢を見た。
 彼はひどく身体の弱い子供だった。いつもベアードと二人、巨大な書斎の中で頭をつき合わせて、読書をしているところを見かけた。義兄の柔らかな銀髪と、フォエマの青白く病的な肌を見る度に、何度も見てはいけないものを見てしまったかのような罪悪感が生まれた。それがどうして罪悪だったのかはわからない。だけれど、彼と義兄がああやって親しそうに、そのくせわずかに冷たい眼差しを向け合っている姿を見ると、どうしてかいいようのない不安にとらわれた。幼いはずなのに、二人はどこか達観していた。自分の価値を知っているかのように、その目は時折透明になった。それはとてもよく似ていたのだ。
 そう、二人はよく似ていた。
 きっと二人は自分たちが鏡の向こうのように、同一で正反対だということを理解していたのだろう、それはまるで私とウィルのように。
 ただ、義兄と彼と、私たちの違いがあるのだとするならば、彼らが二人男であったことなのだと思う。お互いへの依存性があんなにも高いのに、それを抑えて二人は淡白に生きている。できる限り傍に行かないように、慎重に、慎重に。
 それは二人が幼かった頃にはありえなかった。彼らはよく一緒にいた。ベアードは、私や兄、叔母と過ごすよりも、彼と共に過ごすことを好んでいた。それを私は不思議だとは思わなかった。だって、フォエマは私にとってのウィルなのだから、むしろそれが当然だと。
 子供のように無邪気に外で遊ぶことはしていなかったように思う。私とウィルが遊びまわって帰ってくると、時々あの二人がぼんやりと書斎からこちらを見ていることに気がついた。何度か大きく手を振って、彼らは一瞬きょとんとすると、二人同時に微笑んだ。それはひどく大人びた笑みで、同時に幼子のように純粋だった。そしてまったく同じ笑顔だった。それは、とても温かいものにも、怖いものにも思えた。
 フォエマもやはり、外来貴族と伯爵家の混血児だった。イチェリナの貴族は表立って口にしないが、彼らはイエラ・イチェリナの子孫である自らを誇りに思っているため、他国の者をあまり好まない。だから、フォエマはあの城で、蔑まれていた。それはちょうどベアードが、トルスとの混血児として蔑まれているように。
 あの二人が出会ったのは偶然ではないだろう、私はそう思う。
 遥か高く聳え立つ堅牢なあの城で、蔑まれた子供たちが巡り合うのは奇跡だったのだろう。かたや王家のはみ出し子、かたや外来貴族の混血児。本来はきっとありえぬ邂逅を、ベアードは一度目を細めてこういった。英雄を好いてはいない彼が、初めて。
「フォエマと出会えたのは、彼女のおかげだと思っているよ」、そう。
 二人が会ったのはどこだったのだろう。そこまでは知らない。だが、それはきっと、二年前叔母が結婚式を挙げたあのイエラ・イチェリナの眠る教会だ。わかりはしない。それでも、あれほどまでに英雄を崇拝することを避ける彼がああいったのならば、あの裏庭以外にはないように思う。王家の者以外入ることを許されぬ教会は、幼いフォエマにとってどれほど魅力的に輝いていたのだろう。

 白い頬を寒さのあまり紅潮させて咳き込みながら、熱っぽい身体を引きずってこっそり寝台から抜け出した彼は、教会の白い扉に触れた。それはどんな思いもなかったのかもしれない。ただ彼は抜け出したかった。もういつまでも病に伏せているのは、何よりも苦痛だった。もういっそのことこの世から、乳母のいうところの常世からいなくなってしまいたかったのだ。だから、ここではないところにいる英雄の墓を目指す。このお墓ならきっと、自分を救ってくれるだろう、そう思って。
「こほ、こほ」
 勿論本当にそう思っているわけではなかった。ただ何かに縋りたいだけなのだ。この苦しい咳や、痛い注射や、重い頭が嫌だった。ほかの何かで気を紛らわせたくても、それを両親や乳母は許してくれなかったのだ。病的に白い肌、色素の薄いブラウンの髪。弱く今にも消えてしまいそうな錯覚が、フォエマの身体を動かした。
 生きたい。
 純粋な望みだ。死にたいと思っているくせに、どうしようもなく彼は生きたかった。
 扉を一生懸命に押す。それでも笑ってしまうくらいに少しずつしか動かなくて、雪の中であるのにも関わらず、音はひどく耳に響いた。誰かに聞きつけられることを恐れながらも、少年は笑ってしまうくらいに真剣だった。あと少し、あと少しで何かが変わる。
 扉はゆっくりとじわじわと開かれて、真っ白な世界が広がった。
「……わあ」
 純白だ。まるで天国のように白く白くただ白く。穢れのない世界は一面に。厚いウールを着込んだ自分があまりにも不釣合いで、笑ってしまう。白の中の薄汚れた茶色。雪の中に間違えて出てきてしまった土みたいだ。
 もう少し奥に行ってみようと足を踏み出して、鋭い言葉がフォエマを貫いた。動けなくなる。
「誰。ここに入れるのは王家だけだよ」
 冷たい声。だけれどその声はどこかで聞いたことがある気がした。誰だったのだろう、確か彼女たち。皇子さまと皇女さまと、それからレティリアさま。あの人たちと時々一緒にいた、この、――声。
 不意に目の前が暗くなった。顔を上げて思いのほかすぐ傍に、少年がいたことに気がついてびっくりする。銀色の髪を結わいた、少女のような少年。まだ少し紫の濃い藍の瞳。
 彼、ベアードは、やはりびっくりしたようにそこにいた。
「君、誰だい?」
 それが、始まり。