第二部 い紅い朱い彼女

五章 フォエマの宴

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 巨大な城に雪はしんしんと降り積もる。中庭に入り込む灰色の雪が、そのまま廊下に立つ女のドレスを濡らす。霜が降りたような重い銀色の睫を瞬かせ、ふわり、と白い水蒸気がまるで夢のように空へと昇った。
「シャルロット様」
「なに」
 名前を呼ばれてようやく振り返る。そこにいるのは彼女のあまりの薄着に本気で心配し、唯一言うことを聞かせられる一人の従者だった。持っていた柔らかなローブを羽織らせる。
「風邪を引かれてしまいます」
 澄んだ深海の瞳は凍てついた冬のような眼差しを、彼に向けた。この目が自分の罪を許し、そして笑うことができるようになるには、どれほどの時間が必要なのだろう。
 不意に彼女はそっとその視線を落とした。もはや病的といっていいほどに青白くなった肌に、霜焼けでも起こしたのだろうか頬と鼻だけが赤い。瞼が伏せられて、白い肌に灰色の影を落とした。
「執務は終わったわね」
「え?」
 彼女の言葉の意味が分からずにウィルヘルムが尋ね返すと、女王は目を合わせた。人を畏怖させるほど美しい、氷の人。
「もうあなたの仕事は終わった。私にかまわなくていいわ」
 言葉はまるで鋼のように、彼を打つ。それを望んでいるからと分かっているからこそ、従者の青年は言葉が聞こえなかったようにして彼女の冷え切った両手を掴んだ。それはこの主従にだけ許された行為であり、他の貴族では在り得ないことだった。
「……ウィル」
 嗜める言葉を無視して、青年はその大きな手で彼女の冷たい手を覆う。びく、と引こうとするのを押しとどめ、温かくなるようにと撫ぜる。
「こんなに冷えて……。お体を大切にしてください」
 女王は答えず、心がここにないかのように、少しだけ顔を歪めた。
 こぼれ落ちる、吐息。
「……戻りましょう」
 従者の言葉のままに、彼女は彼とその場を立ち去った。
 雪はしんしんと降り積もる。すべての音を吸い込むように、静かにしっとりと。

「夜会?」
 尋ね返す言葉ははっきりとその意図がつかめずにいるようだった。日程を調整した従者も、やはり少しだけ不服そうな顔をしている。彼女とは少し意味が異なったそれではあるが。
「そうだよ、シャルロット。君ももうシェマになったのだから、そろそろそういった場に出て、愛人なんてものを作ってみてはどうだい?」
 シャルロットの義兄である彼の言葉に、はっきりと不快を示したのはやはりウィルヘルムだった。良い顔などするはずもなく、けれど不躾にならない程度に言葉をごまかせて返す。
「そういったことをあからさまに口にするのは、どうかと思いますが」
「ウィル、これも女王の執務の一つだよ。君が口を出す内容ではない。
 どうだいシャルロット。夜会といっても仮面舞踏会だ。ただ仮面をつけて素性を隠し、踊り明かすだけの簡単な遊びさ。もし君が行くというなら、僕が僭越ながらエスコートさせてもらうよ」
 イチェリナ皇国で行われる夜会には様々な種類が存在する。ベアードが名前を挙げた仮面をつけて行う舞踏会、主催者と暗黙の了承をした者だけが入れる舞踏会、オカルトそのものに儀式を行うために招かれる舞踏会。この雪深い冬の時期に行われる夜会は、特に仮面舞踏会が最も多かった。長い冬を精一杯楽しむために、人々はこの夜会を愛する。
 僭越ながら、そう口にしてはいるが、彼のそれは強い口調だった。ベアードの目は強くそれを望む、ではなく、行わせるだけの力がある。そこまでして私を動かしたいのだろうか。
 何のために。
 何百年もの歴史の中で、トルスという国は何度となくイチェリナに逆らい、抗い、そしてそれでも何度でも這い上がってきた。それを知っているからこそ、私は彼というトルスの血を、完璧に信じることができない。
 勿論今、私がそう思うのは、それだけではないと分かっているが。
「行きましょう」
 飾り気もなくただこぼすように言う。それを横で聞いていた従者は、目を見開いた。信じられないと言いたげに、そしてどこか非難を混ぜた視線を送ってくる。それを知りながら、頷いた。
 関係ない。
 もうあなたには関係ないわ。
「義兄様、エスコートを願えますか?」
 彼はその言葉にようやく意味が伝わったようで、ふわりと花のように微笑んだ。美麗な男の顔に浮かぶ花は、純粋なまでに美しく。一瞬そんな義兄を疑ったことに罪悪を感じたが、それもあっさりと心から消し去る。
 罪悪ではない、それはどうしようもない真実だ。
「勿論だよ、シャルロット。君が来てくれるなら、きっとフォエマも喜ぶ」
 フォエマ。
 そうか、そうだった。
 ベアードの大切なものを呼ぶような、優しい声に思わず絆されそうになるのをどうにかして押しのける。そう、フォエマは、彼の最も大切な友人だった。壊れそうなまでに儚いかの男を思い浮かべ、納得した。
 彼がここまでして私を呼びたかったのは、きっと親愛するフォエマに義妹を見せびらかしたかったのだろう。
「フォエマ様の主催する夜会だったのですね」
「言ってなかったかな。そう、彼が久しぶりに開いてくれるらしい。だから、シャルロットも、もう無茶をしてはいけないよ」
 その優しすぎる穏やかな言葉に、目を合わせて仄かに笑う。
 あなたにそんな言葉は似合わない。
「分かっています、義兄様」