第二部 い紅い朱い彼女

四章 ディキリアの棘

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「御機嫌ようシャルロット殿下」
 軽やかな鈴を転がすような声が背後からして、私は緩慢な動きのまま振り返る。あの当時から三年が経過した今、マリエッタという少女はなおも美しく輝かんばかりに成長していた。その彼女が何故ここにいるのだろう。上手く働かない頭がそう呟く。
 もう、レティリアには伝わったのだろうか、先ほどの狂気のような騒動は。
 大勢の人が悲鳴をようやっと聞きつけたのは、私が彼女を斬れ伏せた瞬間だった。どうしても手から離れない彼女を、ウィルがどうにかして引き剥がし、人目を避けるように私室に戻り汚れた服を取り払ったところだ。いつもの着なれた紺色のドレスが、何よりも安息を与えている。これを着付けたのはあの少女ではないのに。鈍い痛みが胸を圧迫する。
「また一人あなたを慕う者を喪ったのですね」
 揶揄を含めた暗い仄かに香る甘い声。女らしい甘さと艶を帯びる彼女を、私は静かにねめつける。堪えようのない喪失感を抱く私を知りながら、けれど彼女は甘やかに毒の混じった笑みを浮かべた。
 ウィルはその言葉にす、と私に寄り添った。彼はどんな表情で彼女を睨みつけているのだろう。触れそうで決して触れることのない距離のまま、ただその存在感を確認する。せめて、せめてあなただけは。
 けれどその想いすら、私は否定しなければいけない。
 彼女の言葉はそれを的確に指していた。
「ねえシャルロット殿下。このままだときっとあなたの従者もまた喪われてしまいますわ。だから彼を私に下さらない」
 呼吸は未だ苦しいままだ。
 彼女を斬り捨てた瞬間から、それは止まることなく続いている。どこかで何かが流れ落ちる音、何かが誰かが、生まれることなく死んでいく音。
 意味を理解するのに対して時間は掛からなかった。その従者は彼女が言葉を放つと同時に顔を跳ね上げる。まるで仇敵にでもあったかのような反応は、酷く愚かしい。
 そう、愚か。
 私があなたを愛したところで、あなたはけれど私を愛してはくれないでしょう。
そんなことはずっと昔から知っていた。私の愚かな恋慕を私自身が気付かないわけがないのだから。
「お好きなように」
 紡がれた言葉。それは紛れもなく私の言葉。
 「桃」と呼ばれる麗しい少女は、けれどその言葉に醜く顔を歪めた。何故あなたが顔を歪めるの。顔を歪めるべきは、そう、もう存在すらしない私の兄や、父や母。愚かな私を責めるのは、彼らでなければいけない。そんな他愛もない言葉を心中に呟きながら、けれど私は静かに彼女を見つめた。
 隣にいる彼は凍り付いているようだった。あなたに私は必要ないのだから、あなたが気にする必要はないでしょう。そう、愚かな想いを抱いていたのは私なのだから。
 そうあなたではない。あなたではないから、何の問題もない。私が一人朽ち果てればそれだけで。
「殿下、あなたは愚かですわ」
 マリエッタは辛辣に吐き捨てた。いつ如何なる時も愛らしい彼女が放つ言葉にしては、それは酷く下劣で不釣り合いだった。甘い少女のような顔が怒りか頬が紅潮し、こんなときであるにも関わらずに私はそれを美しいと思う。何故だろう、何かが離れていくようだ。
 それが分からないまま、私は彼女を静かに見据える。
「あなたには見損ないました。貴殿こそが祖国を真に愛せる王だと信じておりましたのに、所詮あなたごとき氷には祖国など存在すらしない塵に同じなのですね」
 放たれた言葉は、けれど私には何の痛みにもならなかった。私は喪われるのだから痛みを感じる筈がない。脳裏にはあの赤く可愛いらしい私の侍女が手の中で事切れた瞬間が浮かんでいた。身体を見下ろさなくても分かる。私の身体は赤に塗れていること。この手で触れるなら、それはもう穢れてしまう。もう駄目になってしまう。
 一度目を伏せ、彼女をそっと見つめた。何かが壊れたように疲れていた。もう誰の気配もしない夜に包まれて、氷のように眠りについてしまいたい。誰からも触れられることなく、一人でそのままいなくなってしまいたい。
「ええ。あなたは分かっているのでしょう。ウィル、行きなさい」
 もう誰も要らない。
 あとは、あの人を道連れに朽ち果てるだけ。
 言葉もなく黙りこくる二人を置いて、私はその場を立ち去った。

「あれが、あれがシャルロット陛下だというの……」
 少女の声が廊下に響く。呆然と、信じられないものを聞いたと言いたげな彼女は、隣に音もなく立ち尽くす女王の従者を見る。
 彼はその身をまるで冷たく硬い氷柱に刺し貫かれたように、顔を歪めて立っていた。居場所を強制的に奪われた哀れな子どもさながらに、青年は最も愛する人が去っていった方向を泣き出しそうな表情で見つめている。泣き叫ぶような声が聞こえてくるようだ。
「どうして。何故あなたがいながら、あの方はああなってしまわれたの。あなたはこの間何をしていたっていうの!?」
 少女の怒声が立ち尽くす従者に叩きつけられる。その言葉にウィルヘルムは少女をす、と見やる。冷たい眼差しだった。それを平然と受け入れながらマリエッタは口惜しそうに唇を噛み締める。
 彼女が他者を愛せないようなら、それは困るのだ。
 王は国の指針、もしそれが何をも愛せない冷血な人間ならば、それはそのままこの国を示すことになる。勿論彼女だってそれは分かっているだろう。だが、何故。
 それは勿論仕方のないことだ、とも分かる。なぜなら今マリエッタの隣に立つ青年は従者だ。身分違いも甚だしい。それでもガレス卿に求愛されたのは誰もが知っている。だけれど彼女は、私たちの国王は。
「人を、愛せないというの」
 言葉が漏れる。そんなことが、そんなことがありえるのだろうか。理解できない感情をそのままに立ちすくむ。何故、何故こんなことに。
 けれど青年はその言葉に、こちらを強い眼差しのまま振り返る。
「ありえません」
「あなたにそれが理解できて?」
「はい」
「馬鹿なことを」
 そう貶す言葉を吐き出そうとしたが、彼の行動によってそれは阻まれる。その身を翻し歩き出したからだ。
「な、どこに行くつもり?」
「陛下の明日の予定を確認してまいります。マリエッタ様に私など不要でしょう」
「それをいうなら陛下にあんたなど必要ないでしょう」
「いいえ」
 強い口調と、その触れたら斬れてしまいそうなほどに鋭い視線に、ぞくりとする。振り向いた青年はまっすぐにマリエッタの目を捉えた。
「いいえ。シャルロット様を支えることができるのは、私だけです。誰にも、誰にもそれを渡すことはいたしません」
 強い、力強いその言葉。
 確信に満ちたその声を、何故彼女に告げないのだろう。
「……馬鹿者! それを今すぐ伝えにいきなさい!」
 吐き捨てる。分かっているくせに言わせるのだろうか。
 青年は不意に一瞬、泣き出しそうに顔を歪めたあと、弱弱しく笑った。はい、と頷いて、その身を翻す。
 去っていく足音を静かに聴きながら、桃の少女はほう、と嘆息をもらす。知性を備えた彼女だが、けれど彼らの考えは理解できやしないだろう。
 彼ら王族の考える、最も崇高なる手段なぞ。
 何故、女王が誰をも欲さないのか。
 何故、それが義務なのか。
 王族でなければ分かりやしないのだ。