雨は、飽きることなく降っていた。
しばらく中庭で待とうとするとウィルに無理矢理引き戻された。
「いいでしょう、どうせすぐに終わるわ」
「いけません。あなたに倒れられたら困ります」
呆れるほど過保護な言葉に、返せない。分かったわと呟いて、使うだろう物を持ってきたのかを目で問う。彼はこくりと頷いた。彼の翠には、どんな思いが込められているのだろう。
長かった。
その言葉が落ちる前に、メアリが現れた。今にも泣き出しそうな表情で、その目の周りはすでに赤く腫れている。まるで泣きはらしたかのように。
「シャルロット、様」
答えない。ただ黙って問うように彼女を見た。何故私を裏切るの、何故こんな真似を。そう問いたくても問えない言葉を一心に彼女に向けて。それでも彼女はその視線を、違うものと捕らえたかったようで、ヒステリックな声を上げた。
「違います、シャルロット様! 私は、キャロライン様に言われて、あなたをお守りするようにって、だから、違う、違います。私は、あなたを裏切ってない!」
ああ、やっぱり。やっぱりそうなのね。
甲高い声が突き抜ける。足ががくがくと震えた。何が怖いのかすら分からない、それでも恐怖がじわりと足を震わせる。無理矢理に足を動かして、一歩彼女に近づいた。雨が吹き込む中庭に足を踏み入れることになる。避けようもなく雨は体を打ちつけた。
喜びと恐怖と愛情と全てがない交ぜになったような表情を浮かべ、メアリは泣き出しそうに首を振る。駄目、駄目と壊れそうな声で。
「お願い、お願いです、シャルロット様、私は、私は、あなたを」
「裏切りたくなかった」
ぽつり、と呟いた。顔を上げる。叩きつけるような雨の音が心地良い。愕然とした少女の顔を見て、全てが頭から遠のいていく。
メアリ。
「ち、違います、わ、たしは私は裏切ってなどいません! 全部、全部あなたのために、消えてしまいそうなあなたを引き止めるために、そうするために、私は!」
それは肯定の言葉であると誰かに教えられなかったのだろうか。憐憫にも似た思いを抱きながら、けれど私の表情は変わらない。無機質にただ人形のように。精巧な麗しい作り物のように。そうでなければ、そうでなければなんだというのだろう。
この沸き起こる感情は。
「私は、あなたを失いたくなかった!
あの幼い日のロッティという少女を誰からも、何からも奪われたくなかった! なのにあなたは、血に塗れて平然とする氷のようになってしまった。なぜ、……何故!」
激昂した声は詰っているようで。
何故変わってしまったの、何故そんなものになってしまったの、何故あなたが。なぜ。
湧き上がる疑問をそのままに、目の前の赤い髪の少女は、泣き出しながら叫ぶ。どうして。
「あんなにも愛らしいあなたは、どこにいってしまったの!? どうしてあんなにも怯えた血を好んで浴びるようになったの!?
何故あの人のために剣を握ったの、どうして、どうしてそいつのためなんかにっ!」
ぎろり、とその目がウィルを射抜く。口汚い言葉や罵詈雑言に彼は一切動じることなく、彼女を見つめ返した。それが余計彼女の逆鱗に触れたようで、醜く顔を歪ませる。雨に濡れた赤い髪を止めていた紐が取れて、長いそれはばさりと落ちる。綺麗な赤。狂おしいまでに赤いそれ。
「あなたはあのままでよかった! 誰にも触れられることなく終わってしまってよかった! あの人だって、いえ、アルドレッド様だってそれを望んだことなどなかった!」
兄様。
違う。私は兄様が望んでいないことを知っていた。あの優しい兄が、私が血に染まるのを許すことなどないのを知っていた。それでもそれを聞けないフリをした。騙されることを望み彼はそれを受け入れてくれた。私が泣いて縋ったあの日から、兄様は騙され続けることを受け入れてくれたのだ。
けれど、そんなことを彼女にいっても分かりはしない。
「なぜ、穢れる道を望んでしまったの!? あなたは絶対にそうならないと信じていたのに! どうして、どうして!」
これ以上聞いていることはできなかった。また一歩、彼女に足を近づける。メアリは逃げることなどできずに、大声で割れそうな悲鳴を上げた。半狂乱になってまで私を望むのは、ねえ。
どうして。
ドレスの裾から剣を取り出す。雨に打たれても錆びることなく白く輝き続ける刀身。幾人もの人の血を吸った私の心。
それを向けられたときの彼女の顔を、私は一生忘れられないだろう。
「シャルロット、様」
それはまるで。
愛しいものがそこにあったかのような。
表情。
けれどそれは私の手や顔に彼女の血が付いた途端、崩れるように消え去って、残ったのは。
憎悪を滾らせた醜い表情だった。
「な、ぜ。何故私が、私が愛した、あの子じゃ、ないのっ、どうし、て! どうして穢れようとするのよ! 何でどうして!」
「メアリ」
彼女を切り捨てた剣を放り出して、そのまま血まみれの少女を抱きしめる。赤い、赤いそれは、彼女の髪かしら、それとも。
嫌、といいたげに腕を強い力で掴まれ、引き離されそうになる。それでも強く抱きしめると、彼女はずるりと不意に腕の中で力を失った。
「触れ、ないで、さわらないで、穢れたあなたは、あなたじゃ、ない! あんたなんて、死んでしまえ、死んで、死んでキャロライン陛下、に飲み込まれろ! あの方はこんなにっ、穢れたりなんて! しない、しない人なのよ!」
口からごぽり、という嫌な音と共に血が流れる。だけれど彼女はそれすら目に入らないまま、私を見て悲鳴を上げた。
「いや、いやあああ! あんたなんて、昔から、昔から大嫌いだった……! 死んでしまえって何度も何度も! 気持ち悪いのよ! あんたなんか、あんた、なんか! 死ぬしか道がない、ただの死に損ないじゃない、なん、で、なんであんたが!」
虚ろな目は何を見ているの。そう問いたくても、彼女の赤い色に言葉は阻まれる。力すら残っていないその拳を無理矢理、振り上げて殴る。彼女の吐き出す呪詛に縛り付けられたように動けない。
「あん、たが、死ねば、いいのよ! キャロラインへい、か、たすけ、助け、て。はなし、なさ、いよ、私はあの人の、もとで……そうじゃない、と」
ぶつぶつともはや言葉ですらないそれは落ち続ける。
目が合った。
引き寄せた剣を振り上げた。
「おやすみなさい、メアリエル」