第二部 い紅い朱い彼女

四章 ディキリアの棘

09

 打ち付けるような雨は続いていた。廊下は湿気のせいか、余計音が響かなくなっていた。そこをウィルを伴って歩く。メアリはいない。昨晩から姿を消していた。
 どこにいるかなんて、考えなくても分かるのだけれど。
「ようこそいらっしゃいました、シャルロット陛下。ご機嫌いかがでしょう」
 フォルスター男爵夫人と数人のお茶会は、城内で雨の日でも使える綺麗な部屋が選ばれていた。唯一ここだけが雨の日でも光が入る。誰もが使いたい場所だろうが、ここの建設を手伝ってくれたのが当の男爵だったから彼ら男爵家はここにおいては優先されていた。
 おっとりと笑い深く礼をする彼女に対して、軽く頷きながら勧められるまま椅子に腰を下ろす。事実、この淑女は側にいると安心できる。勿論、それは計算しつくされて生れたものだと分かっている。
「また素敵なお話を思いついたのですか」
 そう問うと、彼女はそのわずかに老いた白い頬をほんのりと赤らめる。少女のような反応だった。
「素敵だなんてとんでもございません。あれを楽しんでくださるのは、陛下とキャロライン様とここにいらっしゃる方だけですもの。夫はあまり世俗なことをしないでくれとお小言ばかり。どちらが妻か分からなくなってしまいますわ」
 フォルスター男爵夫人は王都で噂になっている、とある有名な劇作家でもあった。本名を晒していないうえ、物語の構成も単純明快で分かりやすくやや俗物的なものではあるが、その中にどことなく教養を垣間見せるあたり、世間が彼女を本人であると認識できていないのである。
 困ったわ、と言いながらゆうらりと手にもつ扇を仰ぐ。数人周りを取り囲む他の貴婦人たちは、私とフォルスター男爵夫人を同時にちらちらと見つめていた。どちらを敬えばいいのか分からないようだ。主催者が私ならば問題ないのだろうが、今回は彼女だ。私は客だ、と示すように彼女に話を振る。面倒ごとはあまり増やしたくはない。
「本当に。今度はどのようなお話なのか、是非お聞かせ願えませんか」
「そうですわ、私たちも是非拝聴したいと思っております」
「前作の『花人』、とても美しゅうございました。あれは、もしかして、ハーベルフィクス嬢をモデルにしていらっしゃるのかしら?」
 『花人』、か。こっそりとウィルとメアリを伴い、見物したことを思い出した。
 塔に捕らわれ甘い香りの漂うたくさんの花の中で、一人の少女はいつもやってくる異国の国の少年と語り合う。外はどんな世界なの? そこには何が待っているのかしら? 無邪気な少女の問いかけに、けれど少年は曖昧に笑って彼女が喜びそうな物語を話して聞かせる。本当は、少年は異国の国の王子で、その少女は他国の国の巫女だった。二人は決して会ってはいけない、更にいえば惹かれてはいけない二人だったのだが、逢瀬を重ねるたびに二人の愛情は募っていく。それでも遂に少年の国が、彼女の住む国へ進撃を仕掛け、少年は戦乱の中少女と一度も会うことなく倒れる。死すまでのわずかな時間、少年は少女の纏う花の香に気付きそっと目を開けると、少女の腕の中。二人はそっと口付けを交わし、掻き消えるようにその場からいなくなってしまった。
 実際にキャシャラ国からやってきた外来貴族ハーベルフィクスは、その一人娘である麗しい少女を塔の中に住まわせているという。そしてイチェリナ皇国の左翼であるユーフェスニア公爵嫡子は、彼女を慕い毎日飽きずにやって来ていると聞いた。確かにあまりそれは好ましいこととはいえない。イチェリナ皇国の左翼が外来貴族、キャシャラ国と通じてしまうのは得策とは思えない。それも、二人の感情しだいなのだろうが。ユーフェスニア公爵嫡子を慕うもう一人の少女を脳裏に浮かべながら、確かにあのお話は素晴らしい出来だったと思い起こす。
 一緒に見ることができたメアリは最後のシーンで、隠しようもなくぼろぼろと涙をこぼしていた。ウィルに窘められても、彼女の目から流れるものは止まらず、思わず呆れてしまいながら私は彼女に白いハンカチを貸したのだった。そんなどうでもいいことを思い出した自分を恥じる。
「『花人』は、本当は明志国の言葉の佳人、という言葉だったのよ。花のように美しい人、という意味なの。素晴らしい名前の付け方ね、フォルスター男爵夫人」
 そう、甘やかな声が落ちて、はっとする。彼女は他の者たちから離れたところでゆったりと腰を据えていた。目が合って、女はうっそりと微笑む。その隣で赤髪の侍女が救いを求めるような目を私に向けていた。それは今にも泣き出しそうで。
「ええ、そうですわ。博識なキャロライン様はすぐにお分かりになられたのですね。嬉しゅうございますわ」
 貴婦人はそこに嫌味の欠片も残さずに、本当に嬉しそうに微笑んだ。『花人』ご覧になってくださいましたか、と問うと、彼女は立ち上がりこちらへと寄ってきた。空席に腰を下ろし、フォルスター男爵夫人手ずから淹れた紅茶を嬉しそうにいただく。移ろいやすい女は、まるで猫のようだった。
「ええ、見物させていただいたわ。とても素晴らしい出来ね。私はとっても好きよ」
「私もそう思いました。次の作品はもう考えていらっしゃるのですか」
 同意しながら夫人に尋ねると、まわりが一瞬ひときわ強く私を見つめたのを感じる。キャロラインに同意した。それくらいのこと、よくあることだ。誰もが気に入った作品を私たちが気に入らないわけがない。それも分かっているキャロラインは、強い視線を私に送りつけたあとこくり、と紅茶を口に含んだ。
「根本たるものがないので、どうしてもまだお話する気になれなかったのですけれど……」
「是非窺いたいですわ」
「私も」
 たくさんの声を上げられて、彼女は嬉しそうにその眉を困らせた。
「ありがとうございますわ、皆様。そういわれるとやはりお答えしないわけにはいかないですわね。
 次のお話は、三つ目の子供のお話になりますわ」
 三つ目。
 びく、と私は思わず肩を動かした。彼女たちはそれに気付かぬようで、楽しそうにその目をフォルスター男爵夫人に向ける。ちら、とキャロラインを見ると、彼女はふわりと妖艶に笑う。そのつもりだったのか。
「三つ目? ですか」
「ええ。女王陛下もご存知でしょう。狂王により人生を狂わされた幼い赤子。生れたかすらも定かではないその子のお話を、物語ってみたいのです。勿論、史実ですら存在が分かっていないのですから、全ては偽りなのですけれど」
 偽りという言葉にほっとする。そうだ、あれを知る者はごく小数。
「大変興味深いですわね」
「続きを聞かせてくださいな」
「それは、またの機会でよろしいでしょうか。折角紅茶と美味しいお菓子を用意したのですもの、楽しんでいただきたいですわ」
 その言葉を機に集まった女たちは己の会話に花を咲かせ始めた。その動きを見守ったあと、ウィルに合図して一旦部屋を辞した。メアリの縋るような視線が背中を追うのが分かる。
 やめて、そんな目で見ないで。
 だってそうでしょう。
 裏切ったのは、あなた。