第二部 い紅い朱い彼女

四章 ディキリアの棘

08

「不思議ね」
 ぽつり、と言葉を漏らす。最近はずっと側にいた赤髪の少女はそこにはいない。いるのは私とウィルだけ。まだ何も知らなかった幼いあの頃のようだ。あの時は、まだメアリは私にもウィルにも馴染んでいなかった。
「何が、でしょう」
 沈黙を続ける。
 尋ね返すことなどなくとも、ウィルはその意味が分かるはずだから。
 私室の中で、唯一の休憩時間を二人きりで過ごしていた。左側にある窓ガラスが強い音を立てて、風の強さと雨を示している。空は珍しくどんよりと曇り、冷たい雨を降らしていた。
 ちら、と手の中に納まった数枚の資料を見る。あの時は何も気にせずに選んだことだったが、それが今になってこの結果を生み出した。もう少し私が賢かったなら。こんな身を引き裂かれるような痛みは起こりえなかった。
 メアリ。
「トルスの民、だったのね」
 知っていた。彼女がトルスの人間であることは知っていた。だが、私は高を括っていた。彼女が裏切るはずがないと。あんなにも長い間一緒にいたのだから、私を裏切れるはずがないと。
 ばかばかしい。何故そんな幻想を。
 夢を見るのはあの女だけで十分だ。私は白い剣を手に現実を生き抜く。夢を見たければ一人で落ちていけばいい。できれば誰も巻き込むことなく一人で。道連れなんて、お前には必要がないだろうに。
 それも弱い切望だ。それくらい分かっている。それを選んだのは彼女なのだから、私は何も口を出すことができない。分かっている、分かっている。口惜しいくらいに、理解していた。
「愚かなのは、私よ」
「そんなことは」
 首を振る。今何を言われてもそれは間違いようもなく嘘だ。
 人は変わる。
 誰しも必ず変わっていく。それは兄が亡くなったときにもう嫌というほど分かっていたはずなのに。不変など、存在しえないことを理解していたはずなのに。
 私はまた同じ過ちを繰り返してしまったのだ。
「……終わりに、しなければいけない」
 ぽろ、と言葉は自然に転がり落ちた。そう、どうせやるのなら印象深く、私という人格を誰しもが一瞬疑うように。私の底に根を張る狂気をちらとだけ、垣間見せる機会だ。
「……っ」
 ずきり、と不意に胸がつかまれたように痛む。呼吸が不規則になったのが分かる。駄目だ、このまま死ぬのは許さない。何も成し得ぬまま死するのは、絶対に許されない。
 ウィルは私の異変に気づくと、すぐに駆け寄って私を抱き上げた。そのまま寝室の寝台にそっと乗せてくれる。その間にも痛みは心臓を中心に広がっていくようだった。千切れそうな激痛に言葉もなく歯を食いしばる。そっと冷たい布が額に置かれ、大きな手が私のそれを強く握った。そんなことはしなくていい、そう言いたくても今口をあけると悲鳴を上げてしまいそうだった。必死に堪えながら、痛みが消えていくのを待つ。
 死に神は、いつまでも待っている。
 私が「氷の姫」という人格から崩れ落ちるのを、今か今かと待ち構えているのだ。もうあまり時間は、ない。
 最初の発作が起きたのは何時だろう。もうずっと昔のことだったと思う。兄が重い病に臥せたときだろうか。あの時も私は今のようにウィルに手を握られていた。今よりずっと私たちは泣き出しそうで。死ぬことを怯えられるほど、幼かった。だけど今はどうだ。私たちは、私だけでなくウィルさえも、死ぬことに恐怖を覚えていない。あんなにも怯えたそれは、今はただ最も不愉快なものでしかありえなかった。近づかれても怯えていただけだったあの頃とは違い、それを切り捨てようと威嚇する私たちは、なんて愚かなんだろう。
 うとうとと、まどろんでいたようで、ウィルの手が離れたことに気がついて身を起こす。もう痛みは治まっていた。前回注射を打ったばかりにも関わらず発作が起きた。あと何年、何ヶ月でこの命は尽きるのだろう。
 それまでに、やらねばならない。
「シャルロット様、これを」
 差し出されたコップには冷え切った水が入っていた。こくりとそれを飲み込んで、小さく咳をする。ずきり、と心臓が痛んだが、それを顔に出さないように努めた。今は自分の身よりも彼女のことを気にかけたい。
 いつ、いつだろう。
 そう思いながら、けれどどこかで私は答えに気付いているのだ。胸騒ぎがじわじわと焦らせる。終わりはすぐそこに。もう本当に目の前に迫っているようだ。
 いつか、いつか見たあの赤い夢。
 それが現実に訪れるのは、きっと嵐のような雨の日だろう。
 ぶちまけられた赤を拭い去るような、強い、強い雨の日。
 扉が控えめにノックされた。寝室から移動しながら返答する。
「誰」
「フォルスター男爵の侍女です」
「開けなさい」
「は」
 扉が開き、黒髪の少女が入ってきた。深く一礼をした上で、静かに言葉を放つ。その目にはやはりこらえようのない怯えが浮かんでいた。王族に対する、恐怖。私は気に入られないのではないだろうか、そんな卑屈な恐怖。
 メアリにはなかったもの。
 私のたった一言で彼らは自分の命が喪われると信じている。そんなことができるはずもないのに。もはや自分の一部となった民を、無作為に傷つけることなどできようもないのに。
 否、私にはそれができるのだろうけれど。
「お休みのところを申し訳ございません。明日お茶会を催すので、もしお疲れでなければいらっしゃいませんか、と。キャロライン様もお越しくださるようです」
 やはり。
 そう、ずっと感じていた。もしそれが、決定的な瞬間が来るならば、明日しかないと。
 目を閉じる。ゆらりと陽炎のように思い浮かべたのは銀糸の女と赤髪の少女。トルス。
 義兄に深い哀れみを抱く。
 あなたは、きっと苦しい。