第二部 い紅い朱い彼女

四章 ディキリアの棘

07

 信じられない。信じたくない。
 気持ち悪い、気持ち悪い。
 あの白が藍に呑まれるだなんて。
 気持ち悪い。
 汚らわしい。
 ずっと、ずっと嫌だった。
 触れることを許したくなかったのに。
 気持ち悪い。
「メアリ」
 前方に毅然と立つ白髪の主人が振り返り、私の名前を呼んだ。真っ白い純白の美しい人。誰よりも美しく誰よりも穢れを知らない、そして歴代の王よりも血に触れた私の王。
 私の、そう私の女王。
「はい、いかがいたしましたか?」
「応接間での準備を整えておいて」
 応接間。
 あの日、あの人が女王に穢れをつけようとしたところ。気持ち悪い。行きたくない。あそこは純白だったはずのあの人が汚された場所だ。思い出すだけであのときのどろりとした、濃厚な酒の香りが鼻腔をくすぐり気分が悪くなる。あの一瞬の交差。彼女たちの間に立ち上る、薄暗い空気。
 嫌。いやだ。
「メアリ?」
 怪訝そうに問われ、主人の深海の瞳がこちらを覗き込んでいた。返事を返していなかったことを思い出す。駄目だ、しっかりしなくちゃ。
 だけど、口を開いても言葉は出てこなかった。顔が歪む。こんなところで拒否していても仕方がないのに。なのに、嫌悪の感情が沸き起こる。触れないで、私の王に。
 触れないで。
「メアリ? 具合が悪いの」
 問いかける声に首を振る。子供じゃないのだから答えなければ。違う、違います。それでも言葉は口を通らない。まるでせき止められたように、声を発することができない。どうして。
 異常に気付いたのだろうか、ウィルが主人の声に振り向いて私を視界に捉え、表情を変えた。美しい人。二人が並んで立つ姿は本当にまるで幻想のように美しい。ウィルは手に持っていた書類を卓上に置くと、私のほうに近づいてきて同時に私は手で支えていたお盆を取り落とす。かしゃん、という音と共にティーカップやポットが砕け、床にその茶色をぶちまけた。それでも私は動けない。主人の深海の瞳から、探るような恐ろしい瞳から。
 逃れられない。
「メアリ」
 怖い。怖いの。
 あなたのそのどこまでも美しい瞳は。
「メアリ」
 もう一度彼女はいって、一歩私のほうへと足を踏み出した。す、と伸ばされる白い手。これが何度も他者の血やもしかしたら自分の血さえも、浴びていたことを思い出す。何故、何故そんなことを。
 美しいまま、穢れなきままでいてほしかった。
 お人形のように純粋無垢に、全てを信じた眼差しを私に送って欲しかった。なのに、何故剣を手に取ってしまったの。
「具合が悪いのね。座って」
 そっと、まるで大切なものを扱うかのような手つきが、酷く怖い。私はそんなものじゃない。そんな大切に扱われるべき人間ではないのに、あなただってそれを知っているくせに。
 だけれど主人のその優しい言葉に私はどうしようもなく、座り込む。顔色が悪いわ、と心配そうな顔をして、彼女は私の額に冷たい手を当てた。ひんやりとそれは私を侵食する。消えていきそうだ。あの、紫さえも、全部、全部。
「ウィル、紅茶を淹れて。他の子に応接間を整えるよう伝えてきなさい」
「かしこまりました、殿下」
 そうぴたりと美しい角度で礼をしたウィルは、一度こちらをちらりと見ると複雑な顔をしたように思う。駄目なやつだ、と言いたいの? それとも、あなたも。
「メアリ」
 優しく冷たい声が耳を打つ。はっと顔を上げると、彼女は向かいのソファに腰掛けていた。優雅なその姿に、憎悪にも似た感情が沸き起こる。何故、何故。
「は、い」
「具合が悪かったら無理をしないで、といったはずよ」
 冷たい声音。けれど私は知っている。彼女のこの口調は、感謝を述べようとしているものだ。長い間一緒にい続けた私と彼なら絶対に理解できる言葉。それでも、じわりと視界が滲む。泣いてはいけない、ここで泣いては間違ってしまう。それじゃいけないの、そうしてしまってはあの人に、あの人に怒られてしまう。
「はい、申し訳ありません」
「謝ってとは言ってない。休みなさい」
 切り捨てるような声。いつもならそれはなんてことのない声なのに、今日だけは身に突き刺さるように聞こえる。違う、違うの、私はあなたを!
 いっそいってしまえればいいものを。
 いつまで待てばいいの、この狂おしい絶叫を。
 いつになったらあなたに吐き出せると言うの。
「……っ」
 行かないで、そんな醜女のような声が漏れ出しそうになって、必死に口を押さえる。行かないで、お願いどうか、どうか行かないで。その深海の瞳を私に向けて、切りつける様に言葉を投げて。
 すっと立ち上がった彼女は、そのまま部屋を出ようとし、けれどゆっくりとこちらへと戻ってきた。それに深い安堵と愛しさがあふれ出し、涙が堪えようもなくこぼれ落ちる。やっと、気付いてもらえた、そのおかしな言葉が落ちるよりも早く、私はそこに立つのが主人ではないことに気付く。甘い色合いの銀糸はずるりとだらしなく垂れ下がり、ふわりと香る濃厚な酒の匂い。ああ。
「キャロライン、様」
「こんにちは、メアリエル。随分と苦しそうねえ」
 今にも笑い出しそうな口調で、彼女は凶悪なまでに微笑んだ。その目は怖い。毒の混じった紅茶を思わせる陰鬱な紫。でも、それでも彼女だけが。
「助けて……、お願い、です……。お助け、くださ、い」
 苦しい、苦しいの。
 主人の義母である、彼女。
 イチェリナに住まうトルスの民の、心の拠り所。
 そうトルスを愛する者は、彼女を慕い、こう呼ぶのだ。
「キャロライン、陛下……」