第二部 い紅い朱い彼女

四章 ディキリアの棘

06

「殿下」
 声に振り返るとウィルが立っていた。手には今日のスケジュールだろうか、冊子が握られている。少しだけ慌てているようだった。
「突然で申し訳ありません。本日のご予定なのですが少し変更を加えてもよろしいでしょうか」
「用件は」
「キャロライン様が、お会いしたいと」
 何故このタイミングで彼女が?
 困惑を隠さず彼の目を見つめる。けれど勿論ウィルに彼女の事情など分かるはずもなく、やはり少し困った表情をしていた。それもそうだろう、キャロラインはベアードの母、つまり私にとっての義母だ。親しくないどころかレティリア以上に犬猿している彼女が、何故今頃私との会談を望む?
 ふ、と思い浮かぶのは赤い色。
 執務室に向かおうとしていた足をくるりと方向転換させ、応接間の一つを思い浮かべる。そこはもともとトルス帝国の客人のために作られた部屋で、恐らくキャロラインが気に入っている場所だ。何度も彼女があの部屋でくつろいでいた話は耳にする。他国の曲がりなりにも嫁いできた王女が、平然とそこでくつろぐ様子は前々から噂されていた。何度も口うるさい淑女たちに進言されたのを思い出す。
 どこだろうがここは確かに彼女の城でもある。たかが貴族ごときが忠告するのはおかしい。だが、彼女の処遇に困っていたのもまた事実だった。
 義兄へと確かに受け継がれている美しい銀糸を揺らし、うっとりと酒にばかり浸っているようで、けれど彼女はイチェリナの城であるここでトルス出身の人間を掠め取る。ふわりとその美しい体躯で妖艶に、夢のような御伽噺を紡いでみせる。トルス帝国という国が見るべき夢を。
 ある種の宗教のようなものだ、と誰かが言っていた。その言葉を呟いたのは誰だろう。
「彼女が使っている応接間を整えて。それとメアリを呼んで頂戴。時間は何時から」
「できるだけ早急に、と」
「今日会談予定の方々に、予定が変更したことをお伝えしておいて。私は着替えてからいきます」
「はい」
 ウィルの返事をきちんと耳にとどめてから、私室に向かう。せめてきちんとした格好で臨みたかった。この国の王が誰なのか、ここに住まう人々は誰のものなのか。
「忘れられては、困るわ」
 小さく呟く。それは広い廊下に静かにこだました。

 ドレスを着替えて応接間の扉を開ける。案の定ふわ、と強い酒の香が漂ってきた。す、と視線をソファにくつろいだ様子で座る女に向けた。妖艶なその姿、蠱惑的な美しい瞳。醸し出される雰囲気すら義兄とよく似通っていた。けれど決して彼女や彼は醜悪ではない。
「よく来て下さいました、女王陛下。一口いかが?」
 甘い蕩けるような声はそう呟いて、もう一つのグラスに黄金色の酒を注ぎいれるとこちらへと押した。真っ直ぐに座る彼女を見つめ、失礼ですが、と声を上げる。
「お義母様。酒より先に座っても?」
「これは失礼。あたくしばかり楽しんで申し訳ありませんわ」
 すぐ近くに立っているメイドに座椅子を整えるよう指示し、それでもゆうらりと手に持つ扇を仰いだ。甘い匂い。義兄のそれとは違い酷くねっとりとしたそれは、あまり好きな香りとはいえない。同じトルスでも違うのだ。
 座るよう促されそのまま抵抗なく座る。下らない手を使うはずもない彼女は、私のその行為を見て嬉しそうに眦を垂らした。
「あなたは本当にあたくしを疑わないわね。可愛い子」
 答えない。黙って彼女の紫の混じる藍色を見つめる。キャロラインはその様子に余計幸せそうに、目を細めた。まるで愛しい我が子を見つめるかのような視線に戸惑いを覚える。何故だろう、その視線はけれど笑いを含んでいるようで、薄気味悪く思う。いけない、この人は。
 全てを失くす前に、彼女の全てを奪わなければ。
 はっきりと危険が脳内で警鐘を鳴らしていた。やはりこの女は人とは違う。少なくともイチェリナの人間であるならば、その目を私に向けることができない。何故なら私は女王であり――、そうか。
 この女は、私を女王として認めていない。
「ねえ女王陛下? 最近ベアードとは会いまして? あの子どうやらまた低俗なお店に出入りしているみたいなの。あなたから言っていただけないかしら」
「お義母様からおっしゃったほうが、義兄様もお聞きになられると思いますが」
 ふふ、と彼女は赤い唇で半月を描き、妖しい声を上げる。
「分かってらっしゃらないのね、女王陛下。あの子が唯一誰かの言葉を聞くとしたら、今はもうあなたしかいないのよ」
「ご冗談を。実母の忠告を無視するような方ではないでしょう」
 嘘だ。彼はキャロラインのそんな小言には気を止めない。口うるさく彼の行為をたしなめることができる存在は、今は亡きアルドレッドだけだ。私が言ったところでむしろそれは煽るだけだろう。それを知ってか知らずか彼女はにっこりと笑う。
「うふふ、信じたくないのでしょうね。あたくしもよ。でも、あの子の気持ちも分からないでもない」
 言いながら彼女はふらりと立ち上がり、危なっかしい足取りでこちらへと近づいてきた。そのまま私の眼前に顔を近づけて、紫紺の混濁し歪んだ瞳を臆面もなく私に晒す。
 それは、傍から見ればまるで口付けを交わしているような位置で。
「ねえ、シャルロットちゃん。あなたを堕とすには、どうすればいいのかしらねえ?」
「……下らない妄想はお仕舞いにしては」
「氷の姫。あなたを堕落した淫乱な娘にしてあげるわ。ふふふ、楽しみにしてなさい」
 その短い誰にも聞こえないやりとりを終える寸前に、近くにいたメアリが悲鳴を上げた。
「ひっ、な、い、いやっ! いやああ!! 汚らわしい!」
「な、お、奥様!? お離れ下さい! 一体何を……」
「シャルロット様! シャルロット様!」
「大丈夫よ、メアリ。触れていないわ」
 簡潔に答える間にもキャロラインは、自分の侍女たちに連れて行かれていた。
「うふ、うふふふふ。ねえ、女王陛下? 今度は何時お会いいたしましょうか。赤が散ったとき? それとも氷が堕ちたときかしら?」
 答えない。彼女の高笑いを聞く耳と握り締めるメアリの指が、酷く痛んだ。